・金でも美貌でもなにやらの才能でも、
すべてパワーというものである。
パワーが大きくなることを、たいていの人は望む。
パワーが大きくなったら、おそらく、
自由が増えるだろう。
可能性が増えるだろう。
幸福が増えるだろう。
仲間が増えるだろう。
というふうに想像する。
しかし、パワーが増えたら、おそらく、
不自由も増えるだろう。
してはならないことも増えるだろう。
不幸も増えるだろう。
仲間割れも増えるだろう。
そういうことも考えられる。
重要人物になったら、
防弾ガラスのついた大きな自動車に乗れる。
しかし、どうして防弾ガラスがついているのか。
そういうことなのかもしれない。
だからパワーはいらない、と言うのは簡単すぎる。
パワーがほとんどなかったら、さてそこに、
自由はあるのだろうか。
可能性はあるのだろうか。
幸福はあるのだろうか。
仲間はいるのだろうか。
これもまた、どうだろう、わからない。
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
いろんな歴史や、たくさんの物語を知っても、
こういうことの答えはわからないままだ。
大河ドラマだって、ギャング映画だって同じことだ。
パワーの扱いがいつでもいちばんの難問になっている。
「ちょうどいい力」なんてのは物語として語りにくいし、
平凡を語るにも、背景にはパワーが存在しているはずだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もうじき「ピーキー・ブラインダーズ」の新作が観られる。