糸井重里
・夜中に、ぼんやり本棚を眺めているだけで、
読んでもいないのにそれなりの読後感みたいなものがある。
本棚のなかで、ずっとエッフェル塔のように聳え立っていて
全体の景色をつくっている本が、これである。
『仏典はどう漢訳されたのか』(著・船山徹 岩波書店)
副題が「スートラが経典になるとき」というのだが、
本棚にあるときには背表紙だけしか見えてない。
それでも、言いたいことはわかるし、
どういうことが書いてあるのか想像したくなる。
そして、ぼくは、この本を読んでいない。
背表紙だけを何度も見てはいいなぁと思っているばかりだ。
仏典って、あのいわゆる「お経」だぜ。
遣唐使とかがたいへんな思いをして中国に渡って、
ありがたく持って帰ってきた経典だ。
漢字で書いてあるし、つい中国のものだと思ってるけど、
考えてみたらお釈迦さまの仏教って、インドが始まりだよ。
当時のインド(天竺)に三蔵法師たちが
お経を求めて出かけてるんだ。
インドのことばで書かれていたに決まってるよな。
それを、中国であの漢字のことばに翻訳したんだよね。
そんなこと考えてもいなかった、不勉強人であるぼくは。
インドから中国、日本海を渡って日本にやってきた。
宗教とか、ことばとか、書とか、文化とか、距離とか、
人が生きるということだとか、いろんなことを思う。
まったく読んでないのに、ぼくがこんなことを思っている。
この本のタイトルと書かれた内容が、すごいからである。
いつか読みはじめるかもしれないけれど、
その日がいつになるのか、まったくあてがない。
本棚に、『仏典はどう漢訳されたのか』という背表紙が
見えているだけで、この本はもう、
すごい役割を果たしているんじゃなかろうか。
そんなにいつも見ているのに、どうして読まないんだろう?
そこらへんも、興味のあるところなのだけどね。
うーん、じぶんにそのことを説明してやったんだよ。
庭のどこかに枇杷の木があったとするだろう。
その木についた枇杷の実を食べても食べなくても、
ずっと枇杷の木があるなぁって覚えているじゃない?
それと、同じようなことなんじゃないかな。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまの季節、おいしい果物がいろいろ出はじめてるよねー。
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