糸井重里

・とにかくなんにもわからなかった。
 子どものころ、大人たちが言ってる「うまい」だの
 「へた」だのがまったくわからなかった。
 あえて「いかにもわからなかった」という例をあげよう。
 浪曲である、浪花節とも言う。
 昭和三十年代の娯楽といえば、まずはラジオだった。
 そこから流れてきた落語や漫才や浪曲というものが、
 大人のたのしみであり、子どももついでに聴くものだった。
 落語や漫才はおもしろかった、子どもにもおもしろかった。
 しかし、浪曲だよ、わけわかんないのは。
 なんだかしわがれた声でオヤジやオバサンが唸る。
 妙な節回しでなにやらうなっているのだが、
 どちらかといえば澄んでないダミ声に聞こえるし、
 なにをいい気持で歌っているのかわからない。
 「うまいねぇ」「いい声だねぇ」などとばあさんが言う。
 子どもにわかるわきゃない世界だった。
 同じように美空ひばりはうまいだとか、
 越路吹雪がいいとかいう評価についても、わからなかった。
 なんなんだよ、歌がうまいって? 
 うまいといえばみんなうまいし、よくわからないよ。
 子どもの時代にはずっとわからないままだった。

 それがどうしたことだろう。
 いつのまにやら、まったくいつのまにやら、だ。
 歌舞音曲ばかりでなく、あらゆるものごとに
 「いいねぇ」だの「うまいなぁ」だの言うようになった。
 まぁ、青春時代くらいまでだと、まだあんまりわからない。
 「エレキギター」などにしても、どこか、
 速くてメリハリのついた演奏がいいような気がしていた。
 だいたいそんな感じで「わからないのをごまかす」ような
 知ったかぶりを素にしてあれこれ言ってるうちに、
 ほんとに「いいなぁ」というものを感じるようになる。
 「うわぁ」とか「おお」という感情なども見つかる。
 そして、やがて、「うまいなぁ」だとか「まぁまぁ」だとか
 「ややインチキかな?」みたいなことを感じるようになる。
 なんだろうなぁ、あんなになんにもわからなかった俺が、
 えらそうに「いい」だの「わるい」だの評価しちゃってね。
 こういうことって、生成AIなんかだと、どうするのかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
他人のうまいに感心できる人間になりたい、これがたのしい。

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