糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

05月13日の「今日のダーリン」

谷川俊太郎さんの「お別れの会」。
 実は、「ごあいさつ」のメンバーに入れられていてね、
 その荷物は重いなぁと、週末には悩んでいたんですよ。
 そう、神田祭の最中にもどうしようかと考えてました。

 結局、詩人の谷川俊太郎と、
 ひとりの人として生きていた谷川俊太郎さんと、
 どっちもあるんだよなぁと思って。
 ぼくは、どちらかといえば、
 「ひとりの人」のほうの谷川さんによく会っていました。
 とても近い距離感で、たのしくしゃべっていたと思う。
 このあたりの感じは、「ほぼ日」にも
 たくさんアーカイブとして残っているので読んでください。
 やりとりしたことばは、そのまま朽ちずに残っています。

 有るものは、必ず朽ちて無くなるし、
 人間も肉体は消えて煙になってしまうけれど、
 ことばは、ことばで表現されたたましいは永遠である、と。
 そのことは、さんざん言われてきたし、ぼくも言ってきた。
 だけど、実際にぼくたちは肉体として生きているのだし、
 永遠なんていう観念のなかにいるのではなく、
 この世、この世界、この現在のなかにいるわけだから、
 ことばばっかりやりとりしているというのは、
 なんだか逆に不自然なんじゃなかったか、と、
 いまさら素朴に思ったわけです。
 せっかく、いま「この世」にいるのに、
 せっかく会ってもしゃべってことばを交わすばかり。
 谷川さんも「ともだち」と言ってくれていたけれど、
 ぼくら、たがいのボディに触れたことはなかったです。
 握手もしてないと思うし、抱擁もしてない。
 相撲をとって遊んだことも、殴り合ったこともない。
 ずっと話すためだけの距離を保ってきたのって、
 ちょっと変なことだったんじゃないか、
 同じときに「この世」に生きていたのに、と思ってね。
 おたがいに上手な距離を保つ人間だったけれど、
 いっちょ抱き合ってみてもよかったんですよね、ほんとは。
 谷川さんが、もう「この世」にいないし会えないから、
 そんなこと言えるのかもしれないんですけどねー。
 「ごあいさつ」に相応しいかどうかはわかりませんが、
 そんなふうな話をして引っ込んだのでした。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
高尚と世俗、精神と肉体、生と死、どっちも混合されている。