糸井重里
・じぶんでやっていることというのは、
なにか理屈や方法が先にあって、
それに合わせてやっていることは、あんがい多くない。
ときどき、ある程度やってきたところで、
「あ、こういう考えがあったのか」と気づくことがある。
「ほぼ日」をはじめて、数年経ったあたりで、
ぼくは、「機会」をつくっていたのかも、と気がついた。
「機会」というものは、世の中全体では、少なく見える。
だいたいの物事はもうすでに出来上がっていて、
それをまちがいなくやりとげるために、人の仕事がある。
でも、他のこともやってみたいじゃない?
あるいは、決まりきってないことで、
人の求めていることっていっぱいあるじゃない?
だけど、それをやれる「機会」もないし、時間も金もない。
世の中のあらかたが、そんな循環になっているのだ。
どうしてかといえば、まぁ「わざわざやることもない」
という理由でおちついていそうだ。
いまのところ、ある程度うまくいってるのだからね。
あとは、「やって、儲かるのか?」という問いかけに、
なかなか答えづらいということもある。
でも、儲からないまでも「まぁ、とんとん」で、
じぶんがやってみたくて、人もよろこぶことというのは、
けっこうね、探せば、なくはないのである。
それが「機会」というものだと思うのだ。
「機会」は、たくさんあって、たくさん試せたほうがいい。
いずれ、それが別のなにかと組み合わさって、
もっといい「機会」を生み出してくれるかもしれない。
でも、多くの人が、「機会」はどこかにあるもので、
じぶんでつくるものだと思っていないものだから、
なかなかないように思えてしまうのだ。
ただ、チームで仕事をしている場合には、
「機会」を生み出したり、稼いだり、たのしんだり、
ということは、みんなで分け合ってできるのがお得である。
家計簿のようにいえば、食費や光熱費のような費用と、
可処分所得的な娯楽やおしゃれの費用みたいに、
どっちもやれるはずなので「機会」はつくりやすい。
思えば、ぼくらは、そうやって「機会」を生み出してきた。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
小さい組織で仕事しているなかまにこんなことを言ってみた。