糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
06月04日の「今日のダーリン」
〈あらゆる人間は中学生である。〉
・ぼくは、いつもじゃないけれど、
いろんな人のことを中学生として見ることがある。
80歳になってようが、40歳だろうが、25歳だろうが、
すべて、中学生の成れの果てだと思うのだ。
総理大臣のことでも、ああいう中学生いるよな、と思う。
ヒーローたちもそうだし、悪いことをしている人も。
なんでも知ったかぶりな頭のよさそうな人も、
いや、ちゃんと実績のある研究者だとか、芸術家だとかも、
悟ったふうの坊さんにしても、町会長さんでも、
ラーメンの職人でも、スポーツ選手でも、
みーんな実は中学生なのだと思っている。
中学生が、勉強したり人付き合いを重ねたり、
練習したり苦労したり脱落したりを繰り返しているうちに、
いま目の前に見えているような姿になったのである。
中学生だと思うからって、バカにしてるわけじゃない。
ただ、あらゆる人が中学生なんだよなぁと思うだけだ。
そう思うと、それぞれよくがんばってきたり、
凄みや迫力を身に着けてきたかもしれないけれど、
まぁ、だいたいたいしたことはないのだと思うのだ。
だって、ねぇ、中身は中学生なんだから。
大谷翔平選手のことだとか、ぼくはすっごく感心してるよ。
谷川俊太郎さんのことだって、もちろん敬愛している。
長嶋茂雄さん、ずっと憧れていた。
横尾忠則さんは、きっと30世紀まで残る芸術家であるし、
吉本隆明さんには、とても多くのことを学ばせてもらった。
井上尚弥の次の試合をたのしみにしている。
矢沢永吉については、ぼくは子分のつもりでいる。
だけど、そういうことはいいし、それはそれとして、
みんな中学生の顔が見えるんだよねー。
それはたぶん、ほんとうに中身に中学生がいるからだ。
おそらく、釈迦やイエスの近くにいた人なら、
「ああ、あの方も中学生ですよ」と、きっと言うだろう。
かっこよさげに言うなら「超中学生」かな。
ぼくもきみも、もちろん中学生だろう?
みんな教室のなかにいたよなぁって絵が見えるよ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「わたしは中学生じゃない!」と否定する中学生もいるよ。
・ぼくは、いつもじゃないけれど、
いろんな人のことを中学生として見ることがある。
80歳になってようが、40歳だろうが、25歳だろうが、
すべて、中学生の成れの果てだと思うのだ。
総理大臣のことでも、ああいう中学生いるよな、と思う。
ヒーローたちもそうだし、悪いことをしている人も。
なんでも知ったかぶりな頭のよさそうな人も、
いや、ちゃんと実績のある研究者だとか、芸術家だとかも、
悟ったふうの坊さんにしても、町会長さんでも、
ラーメンの職人でも、スポーツ選手でも、
みーんな実は中学生なのだと思っている。
中学生が、勉強したり人付き合いを重ねたり、
練習したり苦労したり脱落したりを繰り返しているうちに、
いま目の前に見えているような姿になったのである。
中学生だと思うからって、バカにしてるわけじゃない。
ただ、あらゆる人が中学生なんだよなぁと思うだけだ。
そう思うと、それぞれよくがんばってきたり、
凄みや迫力を身に着けてきたかもしれないけれど、
まぁ、だいたいたいしたことはないのだと思うのだ。
だって、ねぇ、中身は中学生なんだから。
大谷翔平選手のことだとか、ぼくはすっごく感心してるよ。
谷川俊太郎さんのことだって、もちろん敬愛している。
長嶋茂雄さん、ずっと憧れていた。
横尾忠則さんは、きっと30世紀まで残る芸術家であるし、
吉本隆明さんには、とても多くのことを学ばせてもらった。
井上尚弥の次の試合をたのしみにしている。
矢沢永吉については、ぼくは子分のつもりでいる。
だけど、そういうことはいいし、それはそれとして、
みんな中学生の顔が見えるんだよねー。
それはたぶん、ほんとうに中身に中学生がいるからだ。
おそらく、釈迦やイエスの近くにいた人なら、
「ああ、あの方も中学生ですよ」と、きっと言うだろう。
かっこよさげに言うなら「超中学生」かな。
ぼくもきみも、もちろん中学生だろう?
みんな教室のなかにいたよなぁって絵が見えるよ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「わたしは中学生じゃない!」と否定する中学生もいるよ。