糸井重里
・あんまり下ネタに聞こえることは言わないように、
と、少し注意されてもいるが、これくらいは言おうかな。
ある日ね、男子の小用のためのトイレで、ふと思った。
「ション○ンするのも飽きたなぁ」と。
まぁ、ほんとうのことを言えば、そんなことはない。
ただ、「どれだけしてきたんだろう?」と思ったのだ。
生まれてこのかた、何度めしを食ったか
とか考える人はいても、何度小さな用をしてきたか
考える人もあんまりいないだろうなと思った。
飽きたとも思わずに、出たくなったら
そうとうな用事がないかぎり立ち上がって、
雨の日も風の日も、どこにいてもトイレに向かって、
律儀にそれをする用意をして、結局、ほぼ、して、戻る。
「なにかした」という実感もなく、かといって、
「するんじゃなかった」と後悔することもなく、
おもしろくもなく、つまらないとも思わずに、
元もといた場面に戻っていく。
あまりにも自然にそうしてきたのだけれど、
ほんとうに考えてみたら、人生のなかで、
足し算したらかなりの時間、小用のために使っているぞ。
ほんとは、もう飽きているんじゃないだろうか?
という問いを投げかけてみたくて、みんなのいる場に戻って
「ション○ンするのも飽きたなぁ」と言ってみたのだった。
だれも、「そういえば飽きましたね」とも言わず、
「ぼくは飽きてないです」とも言わず、
ただ単なるひとつの冗談としてやり過ごしていた。
それでいいのだと思う、やり過ごされるような問いだから。
そういえば、めしを食うのも飽きてないなぁ。
おいしくないものを食べるのはうれしくないけれど、
「もう飽きたからめしは食わない」という人もいない。
いや、重い病人だったらそれは言うかもしれない。
心臓をどくどくさせるのも飽きたとか言う人はいない。
息をするのを飽きたという人もいない。
いざ息ができないような場合になったら、
なんとか息したいと必死になるものだ。
人が「飽きた」と思わないでやってることとは、
生きることそのものに関わることなのだろうかね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ってことは、飽きたことはやらなくても大丈夫ということか?







