糸井重里
・たとえば景色を絵に描くときに、
建物やら道路やら、直線のものはたくさんある。
その直線をまっすぐに見せるための絵なら、
そこに定規を使ってもいいだろう。
コンピューターで描くときだったら、
指定すれば点から点へまちがいなく直線を引いてくれる。
ただ、じぶんの絵を描きたいのなら、
定規を使わないだろう。
多少は線が震えても、太い細いが安定しなくても、
直線も曲線も、フリーハンドで描くだろう。
コミュニケーションも、そういうものだと思った。
契約書だとか、法律だとか、
ルールのある文を書くときだとか、それを話すときには、
「定規のような表現」は必要である。
「24時間以内」と「24時間以上」はまったくちがう。
そこは定規をあてたような表現をする場面だ。
しかし、「だいたい1日」というのは、
23時間3分でも、24時間20分でもおよそ許容範囲だろう。
「だいたい1日」の感覚が揃っていれば
それでオッケーなのである。
へたをすると、「だいたい1日」という結果が、
「2日」になっても頓着しないといことだってある。
定規を使う表現と、定規を使わない表現は、
同じ人間どうしの間でも「混じり合っている」のである。
絵で、音楽で、踊りで、ことばで、
フリーハンドでたくさんのものごとが描かれている。
それを「定規を使ってまとめようとする」と、
すっかりもともとの表現はおもしろくなくなってしまう。
出演した映画について取材されている俳優が、
なんとかフリーハンドでいろんなことを話していても、
取材記者が「テーマは家族の愛なんですね?」とか、
定規をあてて言い換えてしまうようなことがよくある。
「愛」「警鐘」「格差」「悲劇」「地球」、
よく使われやすい定規がたくさんある。
その定規で線が引かれただけで、妙に収まりがよくなる。
定規を取り出さずには、いられないものだろうか。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もっと「口下手」を肯定してもいいよね。フリーハンドだぜ。






