笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集 笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集
元ほぼ日乗組員の笠井宏明さんが、
老人ホームに入ったと聞いて驚いた。

12年前までは海外の工場とのやり取りなどを
ばりばり仕切っていた笠井さんだ。
ときどきお会いすると相変わらず姿勢がよくて、
しゃきしゃきしゃべるあの笠井さんだ。

「老いと死」の特集をやるまえから、
ぼくは笠井さんがなぜその判断をしたのか、
話を聞いてみたかったのです。
#7 会社を辞めた理由
笠井さんがここに入るまでの話を聞いて、
ぼくはなにか大きなかたまりを受け取った気がしていた。
まだ、すべてを咀嚼できてはいないけれど、
机の上にあるICレコーダーに
大切なことが録音されているとぼくは感じた。



すこし、別の話をしたくなった。
たぶん笠井さんもそうだったんじゃないかと思う。



ぼくは、これまでの文脈とは外れるけれど、
まえから気になっていることを質問した。



「あの、ぜんぜん違う質問をしていいですか。
ここまで笠井さんの話を聞いて、
とても現実的で合理的だなと思ったんですが、
その笠井さんが、
62歳でADKという大企業をやめて、
ほぼ日、当時はまだ
東京糸井重里事務所という名前だった
小さな会社に移って来たのは、
すごく合理的じゃない気がするんですよ。
それは、どういう決断だったんでしょう?」



ぼくがそう言うと、笠井さんは軽く笑った。
そしてどう語ろうかすこし迷って、
こんなふうにはじめた。
写真
「俺がいま、こうしていられるのは、
まず、人に恵まれていたからだと思う。



そしてそれを大前提として、
仕事をするうえで、俺は、
三つのことに恵まれていたんだよ。



ひとつは、広告屋になったこと。
それから、キリンビールの担当をしたこと。
そしてもうひとつは、糸井さんに会ったこと。



完全に、この三つに俺は恵まれていた。
逆にいうと、これだけだと思っているんです。



俺が最初にいた第一企画という広告代理店は、
広告業界でいえば7位くらいのポジションだった。
1999年に業界3位だった旭通信社と合併するんだけど、
2対1で第一企画が吸収合併されるかたちだった。
だから、合併したあとは、
環境が厳しくなるのがふつうなんだけど、
合併したあとのADKで、
俺はちゃんとした立場でいられた。
それは、キリンビールを担当していたから。



そして、キリンビールの仕事ができたのは、
糸井さんのおかげなんです。



あれは、俺が45歳くらいだったかな、
まだ合併前の第一企画だったころ。
当時、キリンビールは、第一企画のなかで
2番目に大きなクライアントだった。



でも、業界全体でいうと、電通と博報堂が
キリンビールの80%くらいの仕事を請け負っていた。
第一企画は10%くらいの仕事しかもらえてなかった。



そのころ、アサヒビールが
スーパードライという大ヒット商品を出した。
キリンビールはそのぶんシェアを失って、
それを取り戻すために広告代理店と組むことになった。



それまでのキリンビールは
広告にそれほど力を入れてなかったんだ。
けど、これじゃいかんということで、
広告代理店と組んで
大きなマーケティング活動をしはじめた。



電通と博報堂は、どんどんキリンビールの仕事をつくった。
一方で、第一企画はぜんぜんついていけなかった。
このままいくと、第一企画は、
キリンビールからの仕事をまったく
もらえなくなるんじゃないかとすら言われていた。



そんなとき、当時の第一企画の社長から
『笠井、おまえ明日からキリンをやれ』
って言われるわけです。
そのとき俺は銀行の仕事を担当していたけど、
最重要の案件だから、もう、やるしかない。



それでいろいろ調べてみると、
第一企画の前任者は、
キリンの部長とほとんど会ったこともない。
ゼロから関係をつくらなきゃならないとわかった。



まずは、キリンビールの部長と
信頼関係をつくらなきゃならない。
それにはもう、会うしかない。



これは俺の信条なんだけど、最初に断られたとしても、
人って、10回会ったらなんとかしてくれるんだよ。
だから、なんとかつながりをつくって、会いに行った。



だけど、だめなんだね。
簡単にいうと、相手にしてもらえない。
週に1回、とにかく会うと決めて、
キリンビールに行くんだけど、話はまとまらない。
会ってはくれるんだけど、
答えは向こうから出てこない。
『また笠井が来てるな』って、
おもしろがってくれるようにはなったけど、
仕事相手としては歯牙にもかけてない。



そしたらね、あんまり通ってるから、
ちょっとかわいそうに思ったのか、
キリンビールのある人が、俺にアドバイスしてくれた。



『笠井、うちの部長、糸井重里が好きだから、
おまえ、糸井さんを連れてこいよ』って言うわけ。



当時の糸井さんはもう西武の仕事とかで、
日本を代表する広告をばりばりつくってるころです。
でも、行くしかないから、アポを入れて、
正面から、もう真っ裸で、青山の事務所に会いに行った。
写真
その当時、糸井さんはコピーの仕事が
『1行1000万』とか、『15秒1000万』とか噂されてた。
競合プレゼンなんてやってないし、
こんな、競合以前の、仕事ともいえない仕事なんて、
絶対受けてくれないぞって、仕事仲間に言われた。
でも、そうかってあきらめたら、もう、そこで終わる。



だから俺、糸井さんのところに飛び込んだ。
もう、正直に言うしかない。
こういうクライアントがいて、まだ入口以前なんだけど、
糸井さん、ぼくらに力を貸してくれませんか、って。



そしたら糸井さん、やってくれたんだよ。
かわいそうだと思ったのか、
ちょっとおもしろがってくれたのか、
ちゃんと一生懸命やってくださった。
俺らも必死になって、バックアップした。



そして、結果的に、キリンドラフトっていう
商品の広告をキリンビールが任せてくれて、
『生ビールがあるじゃないか』っていうCMをつくった。



そこからいくつかの企画を
糸井さんとご一緒することになったんだけど、
そのたび、糸井さんから広告のことをものすごく教わった。
クリエイティブの連中はもちろん、
マーケの連中、営業の連中まで、
ほんとうになにからなにまでぜんぶ教えてもらった。



クリエイティブってなんなのか、
商品ってなんなのか、消費者ってなんなのか、
消費者を見るってどういうことなのか。
そういうことを糸井さんにみんな教えてもらった。
つまり、そんなことをなんにもわからずに、
俺は20年近く広告をやっていたんだ。



だから俺は、糸井さんに会ったことによって、
はじめて広告というもののとば口に立つことができた。
そこからいろんなプロジェクトを広告屋として
引っ張っていくことができるようになったんだけど、
その成長は、糸井さんがいたからなんだよ。
写真
やがて、糸井さんとキリンの仕事も終わって、
糸井さん自身は広告の仕事からも離れて、
永田さんも知っているように、釣りをするようになった。



俺も、プライベートで一緒に釣りに行って、
いろんな話をした。
そういうなかで、糸井さんはとうとう、
ほぼ日をはじめた。



釣りをしながらいろんな話をしたんだけど、
やっぱり糸井さんは会社の実務、
お金の勘定とか、人事とか、組織編成とか、
そういうことについて差配をふるったことがないから、
けっこうたいへんなんだよ、とおっしゃってた。



俺は折を見て糸井さんを手伝いたいなと思ったし、
糸井さんも、おまえが来るならありがたい、
という雰囲気を醸し出してくださっていたので、
俺は、どこかのタイミングでADKを辞めて、
糸井さんのところに行こう、力になろうと決めた。



さっき若いころの人生計画の話をしたけど、
25歳のときは、『60歳で会社を辞める』って思ってた。
実際、50歳くらいのときから、下の連中に
『俺は60で会社辞めるからな』ってずっと言ってた。
でも、会社が合併しちゃったので、
第一企画出身者の道をつくるために、
役員の座にしばらくついてなきゃいけなくなった。



それでしょうがなく2年いたんだ。
で、61歳になったときに、
会長と社長に『辞めたい』と言った。
『理由はなにもない』と。



会社が嫌で辞めるんじゃない。
ただ、自分で決めた。
自分の残りの人生を考えて、辞めたいんだと。



まあ、引き止められたし、
いろんな人からもったいないと言われたし、
辞めると決まってからは、
ほかの代理店からうちへ来いとも言われた。
けど、そういうことじゃないんです、って、
みんなお断りして、糸井事務所へ行った。



行くにあたっては、役員をやるとか、
そういうつもりはぜんぜんなくて。
週に3日とか4日でもいいから、
糸井さん、なんか手伝えることがあったら
やらせてくださいって言ったんだ。
そしたら糸井さんから、
『来てくれるならやってもらいたいことはいっぱいある』
って言われて、取締役で迎え入れられた。



ほぼ日に移ってから、
前の会社の後輩と飲んだりすることもあったんだけど、
俺がいなくなったことで、
なかなかたいへんな目にも遭ったらしい。
でもそれは俺の生き方だからしょうがないし、
後顧の憂いはなにもないんだけど、
直接、そう言われると、悪かったなとも思う。



でも、それ以上に、俺は、
糸井さんのところで働いて、糸井さんに
『笠井に来てもらって助かったな』って、
一回、感じてもらいたかった。



それが、俺が辞めた理由だよ」
写真
笠井さんは、照れ隠しするようにニカッと笑い、
正直、ぼくは泣きそうになっていた。
(つづきます)
2025-03-24-MON