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エ☆ミリー吉元
こんにちは。
1993年東京都生まれ、
父はマンガ家のバロン吉元です。
美術系の中学校・高校・大学に進学し、
留学先のイギリスから帰国。
「アーティストとしてがんばるぞ!」と、
意気込んでいた大学4年生の夏、
倉庫で父の生原稿を大量に発掘した日をキッカケに、
バロン吉元のマネジメントをはじめることを決意。
卒業後は、バロン作品の魅力を
ひとりでも多くの方にお届けすべく、
展覧会のキュレーションやイベント開催、
書籍装丁、広告デザイン等、幅広く手掛けてきました。
また、自身の作品制作と並行して、
リイド社のマンガレーベル「トーチ」の
編集者としても活動中。
近年はマンガ原稿の保存問題について
情報発信も行っています。
くわしくは公式ページをご覧ください。
X Account:
@_emilioemily_
Instagram Account:
@emily_yoshimoto
エホッシー
生原稿の保存作業にいそしむ私を、
応援しに突如あらわれた、
流れ星の化身....らしい。
ケーネンレッカー
長いあいだ、
バロン吉元の生原稿にくっついていたら、
マンガのおもしろさに目覚めてしまった、
ホコリ....らしい。
陸さん(りく)
お祖父様は、マンガ家・古谷三敏先生。
1990年生まれ。
バンド「ゴールデンボンバー」の
臨時メンバー兼スタッフとして
専門学校を卒業されるまでの約3年間を過ごし、
同時並行でバーテンダーとしての修行をつまれ、
20歳からはお祖父様である
古谷三敏先生のマネジメントを開始。
2015年には、かつて古谷先生がオープンした
大泉学園駅の「BARレモン・ハート」のマスターを
お母様から継がれ、
現在はオリジナルボトルの監修や販売もされています。
陸さんと初めてお会いしたのは「漫画家二世会」でのこと。
自分にとって陸さんは一番年齢の近い参加者で、
お互い20代だったこともあり、
生原稿の保存を通して過去と向き合うことについて、
共感や不安、いろいろなお話をしたことを覚えています。
BARレモン・ハートについて、
陸さんは
「本店はコミックスの中にあります。
このお店は支店です」と語ります。
古谷先生の原作とあわせ、
ぜひお店にも行ってみてください。
フードもおいしい‥‥!!
1955年、『みかんの花咲く丘』でデビュー。
手塚治虫先生のアシスタントを経て、
1963年には赤塚不二夫先生のアシスタントとなり、
『天才バカボン』『おそ松くん』等に
多くのアイデアを提供。
その後は1970年から「週刊少年サンデー」で
ギャグ漫画『ダメおやじ』を連載開始し瞬く間にヒット。
テレビアニメや実写映画化され、
連載は1982年まで続くこととなりました。
古谷先生といえば、その変わらぬ人気ゆえの長期連載。
うんちく漫画の元祖『BARレモン・ハート』は、
1985年「別冊漫画アクション」で連載がスタートし、
2021年に古谷先生がお亡くなりになるまで、
37年間のロングセラーとなりました。
同作は私が初めて読んだ古谷作品でもあり、
「早く大人になって、お酒を飲みたい、
そして知りたい!」と、
酒類文化の奥深さを羨望の眼差しで
拝読していた思い出があります。
じつはその前に、
古谷先生のお人柄に触れる機会がありました。
私が9歳の頃、パシフィコ横浜で開催された
「小・中学生によるラクガキコンクール」があり、
審査員のおひとりを古谷先生が務められていました。
学校に馴染めず、とにかくひとりで
絵を描く日々を送っていた私は、
超内気な性格を乗り越えコンクールに出場。
ステージ上でコチコチになりながら
自分の描いた「ラクガキ」を見せたところ、
古谷先生がとても優しく、穏やかに、
大いに褒めてくださった。
その体験は大きな糧となり、
いまでも制作をつづけることができています。
毎日新聞日曜版で連載された『ぐうたらママ』。
その年数たるや、なんと45年!
ほぼ半世紀つづいた、驚異的な長寿マンガです。
「連載が長すぎて、話の順番が分からないんですよ」
長期連載ならではのお悩みを
そのように吐露する陸さん。
1話ごとに完結する構成、
かつ、掲載紙面が手元にないことから、
話の順番を調べるだけでも、
相当な手間がかかるとのことでした。
また、テキストは写植ではなく、
すべて古谷先生が手書きされているのですが、
たまにまちがった文字があると、
連載時は新聞社のほうで修正。
でも原画は未修正のままなので、
手元に遺された原画だけでは、
訂正すべき箇所がスムーズにわからない。
1話ずつ読んで、陸さんや編集者が
その都度判断するしかない状況であるという
特殊なご苦労もお聞きしました。
『ぐうたらママ』はフルカラー作品であることも、
大きな特徴として挙げられます。
カラー原稿は着彩された色が
どのくらい褪せているかがわかるので、
モノクロ原稿に比べて、
劣化の具合が確認しやすかったりします。
「でも俺やエミリーさんは、
描かれた当時の色味を、
そもそも知らないじゃないっすか」
そんな陸さんのお言葉を聞いて、
首が痛くなるほど頷いてしまいました。
そうなんです、その原稿が描かれてから、
だいぶ後に生まれた私たちは、
初めて見た時から、
その原稿はすでに色褪せていたんです!
調査のために掲載された
当時の新聞や雑誌を見たところで、
その掲載誌がもはや劣化しているんです!
そして作者自身も、
当時どのような色合いだったかなんて、
記憶に残っていません。
私の場合、そういったカラー原稿は、
スキャンした後、
色の塗られていない紙の余白部分が
どれだけ黄ばんでいるかを参考にしながら、
おそらく当時はこういう色だったんだろうな‥‥
という勘を頼りに、PCでレタッチを行なっています。
陸さんは小さな頃から、
工作などものづくりは好きだったとのことですが、
それを仕事にしようと
思ったことはなかったそうです。
幼少期から古谷先生と生活を共にされていた陸さん。
マンガを執筆される古谷先生のお姿を、
物心ついたうちから近くでご覧になり、
マンガ家という仕事自体、とても身近な存在でしたが、
「ここまで絵がうまく描けるようになるには、
おじいちゃんと同じ歳になるまで
やらなきゃいけないんだ‥‥しんどいな‥‥」
とそう思ったことが、
描き手にはならなかった理由とのこと。
そんな古谷先生は、
陸さんが生まれたタイミングで、
孫の可愛さを理由に仕事をセーブ。
なんと毎日のご飯をつくられていたとのこと。
仕事をセーブとはいえ、連載を複数抱え、
十分お忙しい日々を送られていたのにも関わらず、
もともと凝った料理を
おつくりになるのが好きだったこともあり、
執筆のかたわら料理番組を観ては、
「今日はこれに挑戦してみよう」といった具合で、
日々、多様なお料理が食卓を彩っていたと
取材の中でもおうかがいしました。
陸さんがマスターをされている
「BARレモン・ハート」では、
とてもおいしいフードメニューもいただけるのですが、
陸さんの料理センスの背景には、
古谷先生の味が活きているのだなと、
非常に感慨深く思いました。