亡命ロシア人から借りた築400年のアパルトマンで壁の電話回線が火を噴き、中から盗聴器が出てきた件。
── 7日間にもわたる床上浸水に見舞われ、
電話線のプラグが火を吹き、
結果として「盗聴器」が発見された‥‥。
TOBI しろうと目にも
見るからにあやしすぎる物体だったので
ネットで検索してみたんです。

そしたら、第二次大戦中に開発された
「TX3」という盗聴器でした。
── 衝撃的です。
TOBI ここで、さすがのぼくもピンときました。
すべてが、ひとつにつながったんです。
── と、おっしゃいますと?
TOBI 旧ソ連から亡命してきた女、
隣室から監視していた目つきの悪い男、
電話回線に取り付いていた盗聴器。

今回の一連の出来事は、
「スパイがらみの事件」ではないかと。
── あはは、まさかあ(笑)。
TOBI ‥‥‥‥‥‥‥‥。
── ‥‥えーと、つまり、ニジンスキーが?
TOBI ぼくだって、取り越し苦労だといいなと
思いたかったんですけど、
次々と明るみに出る情況証拠が
そんな希望的観測を許しませんでした。

はじめは
自分が盗聴されていたのかなとも思って
気味悪かったんですが
冷静に考えたら、そんなわけないんです。
ぼくの話を盗み聞きしたって意味がない。
── 「過激派」なのは、衣装とメイクだけで
トビーさん、どっちかっていうと
「ハト派」ですものね、目とか物腰とか。
TOBI 「あの店のカツラは長持ちする」みたいな、
そういう情報しか飛び交ってないし。

ですから、問題は
「誰が?」「どのような目的で?」
「誰の電話を盗聴していたのか?」
ということであって‥‥。
── つまりは、こう言いたいわけですか?

「ニジンスキーが
 自由を求めて亡命してきたというのは
 真っ赤なウソで
 じつは東側のスパイだった」と。
TOBI ぼくも、最初はそう推理したんです。

しかし、思い出してください。
隣の空き部屋に「不法居住」していた男に
「ロシア訛り」があったことを。
── それが?
TOBI つまり、何らかのかたちで
あの男が事件に関わっているのだとすれば、
ニジンスキーは、
「二重スパイ」だったのではないかと。
── え、ダブル・エージェントってやつ?

ようするに、当初はソ連からのスパイとして
パリに潜入したものの
ある時点で、西側に買収・懐柔されて寝返り、
逆にソ連側の情報を売っていた‥‥。
TOBI そう。
── 『ゴルゴ13』か『007』かというような、
まさかの展開です。

こんな話が「ほぼ日」に載る日が来るとは
思ってもみませんでした。
TOBI ともかく、盗聴器発見から数分のうちには、
ぼくのなかで
ニジンスキーのスパイ容疑は
ほとんど「確信」へと変わっていきました。
── はああ‥‥。
TOBI そして、この極秘情報は
誰にも明かしてはならないと思いました。

「命が危ない」と、感じたんです。
── いま、大々的に明かしていますが‥‥。
TOBI 金色のイエティの正体を知ってしまった以上、
コンクリート製のエッフェル塔を
頭の上に載せられて、
セーヌ川へ沈められる‥‥。

そんな恐怖で、心臓が、これ以上ないほど
バックンバックンいってるところに‥‥。
── はい。
TOBI 電話が鳴ったんですよ。
── え、何で? 回線、生きてたんですか?
TOBI そのようでした。しかも、着信音量が
初期設定の「最大」に戻ってたんです。

ぼくは、絶妙なタイミングで
けたたましく鳴り響く電話のベルに驚愕し、
ほぼ垂直に飛び上がりました。
── 黒ひげ危機一発の、黒ひげのように。
TOBI そして、おそるおそる受話器を取りました。

ときに、
フランス語で「もしもし」にあたる言葉は
「アロー」なんですが、
ぼくは常日頃から
「アロー、もしもし」と電話に出ています。
── つまり、フランス語のあとに、日本語を?
TOBI そう、実家から親が電話かけてきたときに
「アロー」だけだと
いつも「あ、ガイジン」と切っちゃうので。
── 生活の知恵ですね。
TOBI だからそのときも
咄嗟に「アロー、もしもし」と言いました。

すると、電話の相手が
押し殺したような、低い胴間声で
「セ・キ・モシモシ?」と‥‥
つまり
「モシモシ‥‥誰だ?」と、言ったんです。
── ‥‥はい。
TOBI この時点で
すでに生きた心地ゼロだったんですが
ぼくは、朦朧とする意識のなか、
もういちど
「アロー、もしもし」と繰り返しました。

すると、相手は突然ブチ切れたように
「おまえはいったい何をしている、そこで!」
と、ドスの利いた声で怒鳴ったんです。
── ひゃあ。
TOBI ぼくは、盗聴器を発見してしまったことを
盗撮カメラかなんかで
知られてしまったのだと思って
何も言うことができず、黙っていると‥‥。
── ええ、ええ。
TOBI 「妻がひとりで留守番しているはずなのに、
 なぜモシモシとかいう名前の男が
 うちにいるんだ! そこで何をしている!」
と‥‥。
── えーと、間違い電話?
TOBI タイミングのよすぎる間違い電話、でした。

だから
「ああ、よかったぁ」という意味の言葉を
口走ってしまったんです。
── ええ。
TOBI すると電話の相手は
「何? 何がよかったんだ!?
 おいモシモシ! 聞いてるのかモシモシ!」
と、さらに、ものすごい剣幕で。
── ようするにトビーさん、
「間男」だと勘違いされたわけですね。
TOBI そう、「信じた妻が浮気している」と。
── ムッシュー・モシモシと。
TOBI そうなんですよ。ナニジンかもわからない、
モシモシとかいうクソ野郎と
よろしくやってるとでも思ったんでしょう。

説明しようとしてるのに「妻を出せ!」と
らちが明かないので
「あなたのかけた番号は間違っています」
とアナウンス口調で言って切りました。
── 間抜けな電話で何よりでした。
TOBI でも、そのときのぼくは、
おちおちしていられないと思っていました。

事実、恐怖のあまり
その部屋では一睡もできなくなってしまい、
しばらく友達の家で寝かせてもらったほど。
── 無理もないです。
TOBI だから、せっかく入った部屋だけど、
「次の7月で出ます」と
大家のニジンスキーに伝えたんです。
── ははあ。
TOBI すると、ニジンスキーからは
「では、次のお休みに
 例の収納の中身をキレイに掃除したいから
 お部屋で待っていてね」
という、意味深なメールが来ました。
── 入居時、絶対に開けるなと言われた収納を
「キレイにしにいくから」と?

そんな作業は
トビーさんが出てからでも、いいですよね。
TOBI そうでしょう?

だから、すべてを知ってしまったぼくは、
ニジンスキーに
スパイの7つ道具かなんかで殺されて
鍵のかかった収納に放り込まれるのでは、
あの中には、
これまでニジンスキーに殺された人々の屍が
累々と折り重なっているのでは‥‥と。
── すっかり疑心暗鬼に。
TOBI はたしてニジンスキーは、やって来ました。

驚くべきことに、
彼女はアメリカ人の彼氏を連れてきました。
── なんと。
TOBI 相手は60歳くらいのブライアンという人で
自称カメラマンだということでした。

ぼくは「あやしいものだ」と思いました。

アメリカン、カメラマン、ブライアン。
韻を踏んでいる感じが「あやしい」と。
── トビーさん、
すべてが信じられなくなってますね。
TOBI 何より、いちばん衝撃的だったのは
ニジンスキーが
全身の「金のうぶ毛」を
きれいに剃っていたこと‥‥でした。
── それは、恋のせいで?
TOBI いや‥‥どうなんでしょう。

あれほど化粧っ気のなかったニジンスキーが
口紅を塗り、マスカラも入れ、
髪をブローまでしてあらわれたものですから
ぼくには
「新しい任務のための役作り」だとしか
思えませんでした。
── すべてが信じられなくなってる‥‥。
TOBI ともあれ、部屋に入るやいなや
ブライアンが
「さっそく収納の中をきれいにしよう」と
提案しました。アメリカ人らしく。
── いきなり「本題」ですね。
TOBI ブライアンは慣れたようすで脚立にのぼり、
重そうな錠を外し、収納の扉を開けました。
そして
おもむろに脚立から降りるとスタスタ寄ってきて
ぼくの耳元で、こう囁いたんです。

「アイ・ライク・ジャズ」
── はい?
TOBI 「アイ・ライク・ジャズ」です。
意味は、まったくわかりません。

それだけ言うと
ブライアンは、ふたたび脚立に足をかけて
作業にとりかかりました。
── またしても、何かの符牒‥‥?
TOBI それも、わからないです。
── なっ、謎すぎる。
TOBI ともあれぼくは、脚立の上のブライアンに
「その収納の中身って、ちなみに何なの?」
と、何気ないふうを装いながら
本当はものすごく勇気を出して聞きました。

そうしたら‥‥。
── ‥‥はい。
TOBI 「トイレットペーパー」だったんです。
── へ?
TOBI ニジンスキーが買い込んだ、
大量のトイレットペーパーだったんです。
── 絶対に開けるなって、錠まで降ろして‥‥。
TOBI あまりのことに思考が止まり、
狐につままれたような気持ちでいると、
ニジンスキーは
そのなかのトイレットペーパーを1ロール、
ぼくにプレゼントし、
ふたたび、扉をガッチリと施錠しました。

そして
「部屋の鍵はシカゴの家に送っておいてね」
とだけ言い残し、
ブライアンとイチャイチャ絡み合いながら
どこかへ去っていったんです。
── はあー‥‥。
TOBI 彼女とはそれっきり、になりました。

ぼくは、鍵をシカゴの住所に郵送し、
確認のため
ニジンスキーにメールをしたのですが
そのアドレスは、
すでに使われていませんでした。
── 今回の、一連の「ひどい目」に関しては
解決されない謎が多すぎます。

隣の部屋の目つきの鋭い男、
旧ソ連からの亡命女性、
「水が、漏れていませんか」という言葉、
電話回線に取り付いていた盗聴器、
「アイ・ライク・ジャズ」という言葉、
大量のトイレットペーパー、
そのトイレットペーパーに
頑丈な鍵をかけて保管する女、
その女を覆う、金のうぶ毛‥‥。
TOBI 最後のやつは、
謎でもなんでもないと思うけど。
── たしかに、トビーさんのおっしゃるように
スパイ映画のような雰囲気があります。
TOBI でしょう?
── でも、そうだとしても、
「じつはニジンスキーが二重スパイだった」
というのは、
ちょっと大げさじゃないかと思うんですが。
TOBI ふつうに考えれば、そうかもしれないです。

ぼくも、例の鍵のかかった収納から、
「死体」とは言わないまでも
ロシア語で書かれた
秘密文書などが出てくるんじゃないかって
内心、おびえていたんですが‥‥。
── ええ。
TOBI ただのトイレットペーパーだったわけだし。
── はい。
TOBI でも‥‥ぼくには、それでもまだ、
ニジンスキーを怪しむ理由が、あるんです。
── それは?
TOBI シカゴ大学には
「レジーナ・ニジンスキー」なんて教授は
いないんです。
── え?
TOBI 後になって、シカゴ大学のホームページを
隅から隅まで調べたんですが
そんな名前の教授は見当たりませんでした。

シカゴ大学の教授リストのどこにも、ね‥‥。
<おわります>
2014-08-14-THU

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