── | 空き部屋であるはずの隣室から ふたつの光る目が、こっちを見ている‥‥。 |
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TOBI | 管理人さんにそれとなく 「お隣りにどなたか入られたんですか?」 と聞いてみたんですが、 「いいえ、長い間空いたままですよ」と。 でも、夜中に床がきしむ音がしたり、 微かにタバコの臭いがただよってきたり、 誰かが「いる」のは確実でした。 |
── | トビーさんだけが、気づいていた。 |
TOBI | 不法居住してるな、と思いました。 |
── | 不法居住? それって、住む家のない人が? |
TOBI | パリでは、まあ「よくあること」だそうで、 法律のことは知りませんが 知り合いのフランス人に聞くと ホームレスの人が勝手に住みついても そこが「空き部屋」だったら 「簡単には追い出せない」らしいんですよ。 |
── | それは人道的な配慮‥‥なんですかね。 |
TOBI | おそらく。 たしかに、 寒さの厳しい冬場などに表へ放り出したら、 凍え死んじゃいますからね。 |
── | なるほど。 |
TOBI | ですから、そのときも、 不気味すぎるオーラをビンビン感じつつも 「そういうことなんだな」 と思って、気にしないようにしました。 |
── | 光る目玉のことは忘れようと? |
TOBI | いいえ、まったく忘れられませんでした。 もう、ことあるごとに 光る目玉のことが気になって気になって。 |
── | ですよね‥‥。 |
TOBI | でも、あるときに、 ふと、過去の記憶が蘇ってきたんです。 あの目、どこかで見覚えがある‥‥と。 |
── | ‥‥どこで? |
TOBI | 秋の木枯らしが吹きはじめるころ、 アパルトマンの玄関で コートの襟を立てた不審な男が 鋭いナイフのように冷たい目つきで、 出入りする住人の顔を ひとりひとり、 たしかめるようにしていたんです。 |
── | 不気味ですね。 |
TOBI | 何とも言いようのない、 そら恐ろしい気持ちになったんですが そのことを、思い出したんです。 |
── | 「あの目だ!」と。 |
TOBI | その日は、 恐怖で一睡もできなかったのですが‥‥ 次の日の朝。 |
── | はい。 |
TOBI | ぼくがゴミを出しに部屋を出ると、 その男が、立っていたんです。 |
── | え! |
TOBI | 目の前に。 |
── | 怖い! |
TOBI | ぼくは、叫び出したくなるのをこらえ、 震え声で 「ボンジュール」と絞り出しました。 男は、じいっと黙ったままでした。 黙ったまま、 凍り付くような目で、こっちを見ています。 |
── | は、はい。 |
TOBI | ぼくは、 ステージでも上げたことのないような 雄叫びを上げそうになりましたが すんでところで何とかこらえ、 膝をガクガクさせながら もういちど、挨拶の言葉を叫びました。 「ブッ、ブブッ、ブォンジューッハ!」 みたいになってしまいましたが。 |
── | 恐怖でね。なるほど。 |
TOBI | すると男は、こう言ったんです。 「水が、漏れていませんか」 |
── | ‥‥水が? どこにですか? |
TOBI | わかりません。言葉の真意が読み取れず ポカーンとしていると 男は、もういちど、くり返しました。 「水が、漏れていませんか」 |
── | 何かの符牒? 「山」「川」みたいな? |
TOBI | わかりません。ただ、とっさに 「あ、フランス人じゃない」と思いました。 ドイツなのか、ポーランドなのか‥‥ 北のゲルマン民族っぽい訛りがあったので。 |
── | 訛りっていうと、どんなのですか? |
TOBI | 「カカッカカッカカ、カカカッ!」 |
── | ‥‥それは、 呪いのからくり人形か何かでしょうか。 |
TOBI | いや、つまり、発音の端々に 「カッ」「コッ」「ヘゴッ」みたいな音が 入ってくるんですね。 そのことを考えると、 あるいはロシア系かもしれない‥‥とも。 |
── | なるほど、なるほど。 |
TOBI | とにかく、男の、よくわからないひと言で すっかり縮み上がったぼくは 「漏れていませぇぇん!」と絶叫し、 玄関のドアを、バタンときつく閉めました。 叫びはアパルトマンの回廊をこだまし、 手には、じっとり汗をかいていました。 |
── | はい。 |
TOBI | しかし、そのあと、 男は何も言ってこないばかりか まるでまぼろしのように、 隣室から姿を消してしまったんです。 |
── | え‥‥何だかひょうし抜けですね。 まあ、よかったですけど。 |
TOBI | 喉もと過ぎれば熱さを忘れる‥‥とは よく言ったもので、 隣の部屋から男がいなくなったら、 そんな出来事などすっかり忘れました。 そのまま、数カ月もの時が あっという間に過ぎていきました。 |
── | ええ。 |
TOBI | そんな、ある夜のことです。 季節は真冬‥‥1月の寒い真夜中に ベッドに入ってうつらうつらしていると シャワールームから 「ゴ、ポ、ゴポ、ゴポゴポゴポ‥‥」 という奇怪な音が聞こえてきたんです。 |
── | 水? |
TOBI | 何だろうと思って見に行くと、 あたり一面、水浸しになっていたんです。 |
── | あ! 「水が、漏れていませんか」‥‥!? |
TOBI | そう、排水口から、上の階の人の風呂水が 湧き出ていたんですよ、泉のように。 |
── | こんこんと。 |
TOBI | そんな「命の水」みたいな 音のイメージではなかったですけど。 |
── | 風呂水ですもんね。 でもなぜ、それが「風呂水」だと? |
TOBI | 大量の泡をともなっていたことと、 フローラルの香りで。 |
── | なるほど。 |
TOBI | 風呂水は、どんどん湧き出してきます。 みるみるうちに シャワールームを水浸しにしてしまい。 あろうことか 寝室のほうへも、広がっていきました。 |
── | え、大変。どうしたんですか? |
TOBI | バケツで汲み出すしかありませんでした。 排水管のどこかが詰まっているみたいで 上の階の誰かが使った水が うちの排水口に逆流してきていたんです。 |
── | あの、こわごわ聞きますが、 水とは、あらゆる種類の水‥‥ですか? つまり、トイレの水とかも‥‥。 |
TOBI | 幸い、それだけは、ありませんでした。 建物の構造上、 トイレの配管だけは別だったので、 トイレ以外の、 お風呂、洗面、洗顔、皿洗い、洗濯機‥‥ それら上階8世帯の生活用水が、 かわるがわるに、ゴポゴポゴポとね。 |
── | 災難ではありましたが 「不幸中の幸い」とも言えますよね。 「トイレが別」で。 |
TOBI | たしかに。 パリ在住の知人の女性などは 洗濯機の排水口を掃除していたときに 上の人のなさった「ウ◯チ」が 「スポーーーン!」と、垂直に‥‥。 |
── | えっ! |
TOBI | 排水口から飛び出してきたので 反射的に「掴んで」しまったらしいです。 |
── | 素手で? |
TOBI | そう。空中で。 |
── | そんなナイス・キャッチ要らない‥‥。 |
TOBI | とにもかくにも、ぼくの部屋を襲った 水漏れ事件は その後7日間に渡って続くんですけど。 |
── | な、7日間も!? |
TOBI | 自分のなかで「ぼくの七日間戦争」と 名づけているんですが、 その件は、本題からは外れますので、 また別の「ひどい目。」として あらためて、お話させていただきます。 |
── | つまり、その時期は ふたつの互いに異なる「ひどい目。」が クロスオーバーしていたと? いくらなんでも、ひどすぎる‥‥。 |
TOBI | 風呂水の勢いはとどまるところを知らず もっともすごかったときには 床上5センチくらい、 部屋中が、水で浸ってしまったんですね。 で、壁の電話回線も浸水してしまって 事件の直後から、 電話の調子がおかしくなったんですよ。 |
── | はい。 |
TOBI | 話していると切れたり、雑音が入ったり。 しばらく、だましだまし使っていたんですが、 ある朝、 ついに電話線のプラグが火を吹いたんです。 |
── | なんと。 |
TOBI | コード類がまる焦げになるくらいの火が出て ぼくは、びっくりして 思わず、手近にあった消臭剤を シュシュシュッと、スプレーしました。 |
── | ファブリーズ的なやつですね。 で、消えたんですか、それで。 |
TOBI | 消えました。 |
── | 可燃性でなくて何よりでした。 |
TOBI | 消臭剤が焦げ、非常に香ばしい香りが あたり一面に漂いました。 それは、とても懐かしいにおいでした。 何だろうと記憶の意図をたどると、 それは「焼きモロコシ」の香りでした。 |
── | ああ、消臭スプレーのなかには トウモロコシ成分のやつありますもんね。 |
TOBI | そんなことはともかく、 ぼくは鎮火した差込口のカバーを取り外し、 おそるおそる、その奥をのぞき込みました。 |
── | おお、にわかに話が核心に。 |
TOBI | 明らかに電気的なショートの焦げあとが あちらこちらに残っていました。 プラスチックが焼けた嫌な臭いもします。 と、電話回線の箱の側面に いかにも「あとからつけた」ような、 黒い物体を見つけたんです。 |
── | ‥‥ええ。 |
TOBI | それは、 2センチ四方ほどの黒い立方体でした。 見るからにまがまがしい物体が 電話線の脇に、 しがみついたら離さない 悪魔のテナガザルみたいなかっこうで 取り付いていたんです。 |
── | それがつまり‥‥。 |
TOBI | 盗聴器、だったんです。 TX3、というかいう名前の。 |
<つづきます> |
2014-08-13-WED |