生きものって、スッキリとしてないんです。
直線だとか、垂直だとか、均質だとかは、
無機物のほうにありがちな特徴で、
生命って、だいたいきもちわるいものなんです。
生命感のあるものって、実にもう、
ぐねぐねしてる、べとべとしてる、ぬらぬらしてる、
そういう感じになってきています、ぼくらの「ほぼ日」。
ちっとも自賛もしてないし謙遜してもいないですが、
いまの「ほぼ日」は、不気味ですよ、生きものっぽくて。
ぜんぜんスッキリしてないのが、とてもいいです。
ある時期のぼくだったら、
もっと見通しのいい景色を求めたかもしれないのですが、
深い森やら、海の中やら、迷路みたいなわからなさを、
群れとして持っているって、すっごくいいです。
走り出すし、転ぶし、笑うし、泣くし、元気です。
明日や明後日を怖がってないところが、
昔の人でもあるぼくにはできなかったことです。
ぼく個人は、いわゆる「自己肯定感」の弱い人間なのでね。
そういう意味では、「ほぼ日」という生きもののほうが、
糸井重里という人間よりも、ずっと大きく育ってます。
生きものっぽいものこそが、ぼくらの存在理由です。
いや、ぼくらのっていうより、ほんとは人間の。
これまでの時代これまでの社会って、
生きものであるきもちわるい人間に、
無理やりスッキリさせようとしてきたんですよね。
いわゆるひとつの近代社会ってしくみで。
で、そういうスッキリものの象徴が、
なにかと話題の人工知能でしょう。
これはもう、たしかに、ほんとにすごいと思うのです。
スッキリの親方、スカッとの神、クールの王様。
もう、ほんとに役に立つやつですよ、おそらく。
ただ、人間であるぼくらは、
ソウイウモノニワタシハナリタイのだったか?
もしかしたら、なりたがっていたのかもしれませんけど。
だけど、AIの驚くほどの進歩を見せてもらえたおかげで、
これはちがうかもって、気づかせてもらえたんです。
スッキリしてないほうの、生きものっぽいほうの
じぶんたち人間の側にこそ、ぼくらの望む価値があるって。
そういうことを実感せざるを得ない時代にも、
もう、なりかかっています。
スッキリ方面にはいろいろ助けてもらいましょう。
でも、人間であるぼくらはどう生きたいのだろうか。
生きたい側に舵をとろうよ。
未来は、現在のなかに混じり込んでいますから、
こういう気分は、とても多くの人が感じているはずです。
去年から、いかにも代表者の、
いかにも周年の挨拶みたいなことをやめてます。
27周年の今年も、その勢いは加速していると思います。
去年、すでにこんなことを言ってます。
これまでよりももっと野生的なプロジェクトを、とか、
「ほぼ日」創刊前みたいな風を吹かせましょうとか、
「おもしろく」のいろんな角度からの再開発とか、
「よそもの、わかもの、ばかもの」としてワッショイとか、
言ってたことは、冗談じゃなかったのが、
じわじわぐねぐねと見えてきてるでしょう。
希望ハ我ラニ在リ。
みんなもいっしょに、やりましょう。