| じぶんの「好き」(3月25日) 
 
 ・この震災のなかで、みんなが自分の「好き」を見失わず、
 つまり自分らしさを忘れることなく‥‥。
  ある読者の方のメールにあった文です。  道路や建物の破損は少なく、水も出るし、電気も通っている。
 しかし、静かに精神と行動が拘束されている。
 福島のいくつかの街には、そういう被害があります。
 原発のニュースがあるたびに、
 なにかの数字が発表され、
 見えないなにかが衰弱していく。
 
 映像になりにくい被災のかたちが、あるようです。
 
 友人の家の小学生の子どもは、
 高いマンションの部屋にひとりでいるときに、
 あの時間を過ごしたのだそうです。
 そのときのことは、質問もされたくない、らしいです。
 よほどの恐怖があったのでしょう。
  ミルクを溶く水の心配をせねばならないおかあさんも、黙々とつくった野菜を処分する農家の方々も、
 恐る恐る看板の照明をつける商店の人たちも、
 紙が入手できなくて印刷できない雑誌社の人たちも、
 それぞれに震災の痛手を被っています。
 
 いまの厳しい状況を、人体に喩えるならば‥‥。
 大怪我をした人が、快方するための元気が必要なのに、
 もっと精神やら内臓やらまでも、やられているらしく、
 なかなか立ち上がりにくくなっているような感じです。
 目に見える被災のかたちと、見えない被災のかたち、
 両方を乗越えるのが、ぼくらの目的だと思います。
 そのとき、カギになるのが、冒頭にあった
 「好き」なんじゃないかと思ったのです。
 
 わたしは、ぼくは、おれは、なにが「好き」?
 誰にも文句は言わせない「好き」なんだから‥‥。
 その「好き」は、その人そのものの大事さと同じ。
 思い出しましょう、じぶんの「好き」を。
 今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。身体も心も、ストレッチとかマッサージとかしたいですね。
 |