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さて、ここから先、講演の後半は
言葉の話になっていきます。
吉本さんの得意とするところですね。
ここまでのところで、
近親者や同信者も裏切る、
自分自身も信じることができない、
と書かれていることがわかりました。
それでは、マルコ伝ではいったい
何を信じることができると
書いてあるのでしょう?
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それは、言葉であると
吉本さんは言っています。
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自分自身としてのイエスも信じられない、同胞も信じられない、近親者も信じられない、結局かろうじて残るのは「言葉」ではないかと思われるのです。ぼくには「言葉」という問題が、いちばんひっかかってきたところです。喩というのは、比喩とかたとえとかそういうことですが、(この講演に)「喩としての聖書」という題をつけたのはそういうところなんです。そう考えていきますと、新約書の主人公のイエスというのは言葉にがんじがらめに捕らえられているんです。 |
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吉本さんもここで言及することですが、
イエスが言葉を信じていたことには、
実は事情があるんです。
イエスがいたのは、新約聖書の世界です。
それは、ユダヤ教の人たち、
つまり旧約聖書を手にしていた人たちが
信じていた宗教の
礎のうえにあります。
ですから、キリスト教は
旧約聖書に書いてあることを
意識しなくてはいけない状況にありました。
旧約聖書の預言が信仰されていた社会で
自分たちが新しい宗教をやるわけですから、
「俺たちはこういうことを考えたんだけど」
と、ただ言うだけではダメだったのでしょう。
旧約聖書の言葉を
みんなが信じているのと同じレベルで
自分たちも信じないと、
誰にも信じてもらえなかったんですね。
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旧約聖書にがんじがらめになってるイエスについて、
吉本さんはもっとくわしく
講演集『吉本隆明 五十度の講演』の
「004 宗教と自立」で語っています。
講演集を持っている人は、
ぜひこのマルコ伝につづけて聞いてみてください。
「004 宗教と自立」は、おもに
マタイ伝について語る講演です。
新約聖書が
マタイによる福音書からはじまっているのは、
旧約聖書の言葉に縛られるしんどさが
キリスト教の布教に都合がよかった、
ということもあったのでしょう。
結局はがんじがらめさが、いつも
勝つ要因になるんですね。
キリスト教は、そこであらゆる妨害に
勝てるような理論武装をしていったんです。
その迫力は、あの宗教の2000年以上の歴史を
支えるんだなぁと思います。
話をマルコ伝に戻します。
これまでの流れで、
「言葉」だけを信じると
マルコ伝の作者はあらわしました。
ですから、言葉というものに注目して
マルコ伝を読んでいく必要があります。
そうすると、ところどころで
奇跡の話が現れてくるのがわかります。 |
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イエスが海に向かって「黙せ、鎮まれ」と言うところがあります。そうすると、海が静まったと書かれています。 |
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聖書で描かれる奇跡について、
吉本さんは
「これは喩(ゆ・たとえ、比喩)である」
と語ります。
言語論的には、比喩は
直喩と暗喩(メタファー)があります。
あるところに、Aさんという
のろまな人がいたとして、
Aさんをカメにたとえて言うとき、
「Aさんはカメのようにのろまだね」と言うのが直喩、
「Aさんはカメだね」が暗喩です。 |
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新約書の主人公が聖書のなかで演ずるさまざまな奇跡は何かといったら、暗喩なんです。 |
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カメと人なら
近くてわかりやすいかもしれないのですが、
隔たったイメージのものや
信じられないことを強力に
暗喩で結びつけようとした状態、
それが奇跡として読めるのです。
成り立たなさそうに見えるふたつのものが
喩として結合しているのが
奇跡の正体だと吉本さんは考えているのです。
聖書は、言葉というものを
そのように使っているわけですね。
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ところで、この直喩と暗喩、
歴史的にはどちらが先にできたと思いますか?
答えは、暗喩のほうです。
この講演の最後のほうになりますが、
吉本さんがこう語っている箇所が出てきます。 |
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まず喩として一等最初にあったのは、ぼくがこれは勝手に名前をつけたのですが、「虚喩」というものがありました。その次の時間に発生したのが「暗喩」、メタファーです。その次に発生したのが「直喩」です。そして最もあとに出てきたのがストレートな言いかたなんです。
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わたしたちが現在メタファー(暗喩)だと考えているものは、メタファーが発生して使われ流布された時代の人にとっては、メタファーではなくあたりまえな言いかただったということです。 |
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「Aさんはカメのようだ」という直喩は、
Aとカメをイコールで結んで関係を表します。
けれどもそれは、よく考えると
イコールじゃありませんよね。
昔の人は特に、それをイコールだとは
思えなかったんでしょう。
だって、別のものですからね。
「Aさんがのろまである状態」を見て
漠然と「カメだ」と思う暗喩のほうが先にあったんだ、
ということは、少し考えてみるとわかります。
つまり、Aさんとカメを
同じものとして「感じる」ということです。
「Aはカメだ」「カメだ、カメだ!」
とはやし立てたりするときにも
知らず知らずで暗喩のほうを使いますし、
お祭りの掛け声でも歌でも、
そういうものが目立ちますよね。
だけど、学校での文法で習うのはおそらく
直喩のほうが先ではないでしょうか。
「Aさんは亀じゃないよ、
亀の“ように”遅いんだよ」
と、子どもたちに教えるでしょう。
「詩としての表現であれば
Aさんは亀だ、と言ってもいいんだよ」
なんていうふうに教わったとしたら、
「それは高度な表現なんだ」
という印象になるのかもしれません。
だけど、言葉をあまり知らない子どもは
お母さんが台所でガシャーンとお皿を落としたときに、
「カミナリ!」とか、叫びますよね。
ガシャーンという音を「カミナリみたいだ」と
たとえるのは、そのあとなんです。
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吉本さんは、この暗喩と直喩について
どこから発想をはじめたかというと
おそらくマルクスです。
1本のボールペンが
1杯のコーヒーに交換できる場合、
ボールペンはコーヒーです。
だけど、ボールペンとコーヒーがそのまま
イコールというわけじゃないですよね。
ボールペンが100円だとすると、
コーヒーも100円。
ボールペン=100円、100円=コーヒーです。
すると、ボールペン=コーヒーで
物々交換になるわけです。
あいだに100円があると、
わかりやすくみんなが納得します。
ボールペンは100円のようで、
100円はコーヒーのようで、
ボールペンはコーヒーのように100円だ、
という関係が結べるんです。
そうやって価値の体系はできていくわけです。
吉本さんは、
商品論と言葉は同じだというふうに
たどりついたんです。
隠喩があって直喩がある。
おもしろいですよね。
さて次は、最終回となります。
現在の吉本さんの
「芸術言語論」に通じる虚喩の話とともに、
それがいまの社会にどう活かされていくのか
ぼくなりの見解を話したいと思います。
では、また次回に。
(つづきます) |