昆布智成さんは1981年福井県福井市生まれ。
「昆布屋孫兵衛」のお店のあるこの場所で育ち、
18歳までを過ごしました。
東京の大学を卒業後、製菓の専門学校を経て、
オーボンビュータン(AU BON VIEUX TEMPS)で
製菓のキャリアをスタートします。
男性のみの20数人の先輩にまじり、
「教えてもらうというより、自ら学ぶという環境」で
プロの製菓を学びました。
その頃は、メモを取るという概念がなく、
手軽に写真が撮れるスマホ的なものもない時代です。
ただひたすらにフランス菓子の基礎を
からだにたたき込む日々。
「あの3年半は、すべて、
今の自分の財産になっています」
と智成さんは当時を振り返ります。

その後、東京の
ピエール・エルメ・サロン・ド・テに3年半勤務、
スーシェフ(副料理長)を務めたのち、渡仏、
1年間をフランスで過ごします。
前半は南仏のエクサンプロヴァンスにあるパティスリー、
リエデレ(Riederer)で、
MOF(フランスの国家最優秀職人章)をもつ
パティシエに師事、
ガトー・グラッセ(焼き菓子に冷たいジュレをのせた
デザート)や地方菓子を学びます。
後半の半年間はパリに移り、
ミシュラン2つ星レストランである
ラトリエ ド ジョエル ロブション
(L'ATELIER de Joël Robuchon Etoile)で
デセールを担当しました。
日本に戻ると、東京のパティスリー、
アングラン(UN GRAIN)にスーシェフとして入店、
2019年からはシェフパティシエを務めました。
そこで9年間を過ごしたのち、2023年に
地元・福井の実家である昆布屋孫兵衛に戻ったのでした。
智成さんの父である昆布孫兵衛さん
(2024年に襲名し、
薫さんから孫兵衛さんになりました)は
和菓子職人です。
先代の孫兵衛さんが腕を振るっていた頃は
和菓子職人が10名、さらにスタッフが5名在籍し、
本店のほか複数の店舗をもっていた大店でしたが、
智成さんは和菓子の道へと進まないと、
ずっと言っていたそうです。

「父は、そのことを、ぼくが小さなころから、
分かってくれていました。
そして洋菓子の道に進んだとき、
もう福井には戻ってこないと思っていたはずです。
だから『帰る』と言ったときは、
驚いたんじゃないでしょうか」
自分ならではの菓子を作りたいと思っていた智成さんは、
オーナーとして独立するにあたり、
「その場所は東京ではない」と考えました。
人にはできないことをしたいという思いは、
自分にしかできない方法を探すことでもあり、
それで「実家を継ぐ」道を選んだのだといいます。
智成さんが「帰る」と伝えた頃、
当時の父・薫さんは肩を壊していました。
和菓子作りは、あんこを炊くことひとつとっても、
大きな道具に大量の材料、火を使う、体力の要る仕事です。
智成さんが戻ると思っていなかったこともあり、
自分の代で昆布屋孫兵衛を閉めることを考えはじめ、
しかも肩に人工関節を入れる手術を控え、
徐々に規模を縮小していたタイミングでした。
じっさい、その半年後に手が上がらなくなり、
いったんお店を閉めて人工関節の手術へ。
シャッターが閉まったままのお店を見て、
地元の人のあいだでは
「昆布屋さん、閉店しちゃったみたい」と
うわさになっていたそうです。
でもじつはその時、智成さんによる
昆布屋孫兵衛のリニューアル計画がすすんでいました。

仕事を辞めよう、店を畳もうとまで考えていた
父・薫さん(今の孫兵衛さん)が
和菓子づくりに復帰するかどうかの議論は、
ふたりの間ではしなかったそうですが、
智成さんが言ったひとことを、
いまも孫兵衛さんは憶えているといいます。
「『お金で歴史は買えないよ』って、言ったんですよ」
そして、続けてほしいという言い方ではなく、
父さんに任せる、と。
それで、どちらから、ということなく、
「一緒にやろう」という結論が出たのだそうです。
「ぼくが父に、和菓子を続けてほしいと
説得をしたわけじゃないんですよ。
戻る、と言ったら『そうか』だけでしたし、
『おまえは洋菓子をやるんだろ?』と言うので、
『そうだよ』と言いました。それだけです。
でも父には和菓子をつくりたいという意思がありました。
なので改装をするにあたって、父がひとりでも
和菓子をつくることができる工房をつくりました。
それを喜んだかどうか....、
そういう表現をしない人ですが、
悪くはなかったんでしょうね、
少なくとも、長い歴史を途絶えさせずに済んだので」
孫兵衛さんはその時のことをふりかえり、こう言います。
「やれるとこまでやらなきゃダメだな、と思って。
そして息子が帰ってくるのであれば、
古典的な和菓子じゃなくて、新しい和菓子をやろうと。
歴史があるからこそ、
新しい和菓子に挑戦できるのかなと思うんです」

2023年にふたり体制の
新しい「昆布屋孫兵衛」はスタート、
翌年の2024年に、薫さんは「孫兵衛」になりました。
いっぽう智成さんは洋菓子の職人、
つまりパティシエですが、
現在、名刺には「菓子職人」とだけ書いています。
昆布屋孫兵衛に戻るにあたり、
和菓子をつくるわけではないけれど、
和菓子のエッセンスを取り入れることにした智成さんは、
孫兵衛さんに相談にのってもらうことが多くなりました。
その逆もあるそうで、
「父の和菓子を京都に卸しているのですが、
こういう味にしたら、とか、
こういう見た目にしたら、など、
ぼくの意見も取り入れてもらっているんです。
面白いですよ、
もう一回、お互い、あたらしく勉強をしなおすようで」。
ふたりそれぞれがつくっていても、
昆布屋孫兵衛の菓子には統一感があります。
智成さんの手による
洋生菓子やアシェット・デセール
(お皿に盛りつけた、つくりたての生菓子)も、
和とも洋ともいいがたい「昆布屋孫兵衛の菓子」です。

相談をしながらも、
菓子作りの道具もメソッドも違うふたりは、
勤務時間もそれぞれです。
智成さんは朝8時スタート、
孫兵衛さんは6時スタート。
作業中も会話することはほぼなく、
それぞれがそれぞれの菓子をつくります。
この取材はふたりの工房で行ないましたが、
話すとき、智成さんも孫兵衛さんも、
ひとときも手が止まることはありませんでした。
それに驚くと孫兵衛さんはこう言いました。
「職人は手が止まったら終わりですから」
取材に訪れたこの日、昆布智成さんの工房では
コックコートに身を包んだ
若いパティシエが働いていました。
弟子なのかと思ったら、
「彼は石川から研修で来ているんです」とのこと。
そういえば「教える」というよりも、
「現場を見せているだけ」というふうに見えます。
研修生の眼光はするどく、智成さんが菓子をつくる
一挙手一投足を見逃すまいという視線です。

智成さんの工房にはアルバイトスタッフはいますが、
弟子や、アシスタントを務める製菓スタッフは不在。
基本的にすべてのお菓子を
ひとりでつくっているのだそうです。
研修生も募集をしているわけではないのですが、
来るもの拒まず。
これまでも東京、名古屋、長野、
そしてギリシャ、シンガポールなど、世界から、
SNSを通じて志願して来ていたのだそうです。
いま、世界の若き菓子職人たちにとって、
智成さんのつくるお菓子は
憧れの存在になっているのですね。
ちなみに、孫兵衛さんも基本的にひとり。
ただ、巨大な寸胴に入った煮上がった小豆を
大きなさわり(丸底の銅鍋)に移す作業などには、
どうしてももうひとりの手が必要なので、
その時だけ、ふだん接客を担当している奥さまが
手伝いに入ります。

智成さんが指揮をとり建て替えた新店舗は、
コンクリート打ちっ放しながら
和の風情を出した現代的な建築。
ファサード(正面)の、
地面から浮き、斜めにしつらえた
コンクリートの巨大な壁は、
江戸時代の大店を思わせる
巨大な店頭幕(日除け暖簾)のよう。
雪深い福井の冬も、この角度のファサードなら、
雪が積もらず落ちるそうです。

ファサード下の水盤に沿って、
傾斜のある通路を通り、ガラス張りの店内へ。
横に長いつくりの大きなカウンターテーブルの
左手にはお菓子が並んでいます。
テーブルの右側には5席のスツール。
ここはイートインコーナーです。


ファサードにあんなに大きな壁があるのに、
店内は明るく、
灰青色の壁に反射する外光がきれいに回っています。
晴れた日にはファサードの下につくった水盤が
陽光を反射し、
きらきらとやわらかな光が内壁に反射するのを
見ることができます。
そんなおだやかな光が室内の調度品や
お菓子を美しく見せる設計は、
とても日本的な発想なのでしょうね。
ガラスに沿って、旧店舗の和風建築で使われていた
丈夫な梁がベンチのように設けられ、
コンクリートと木、モダンデザインと伝統が
調和しているのを見ることができます。
買い物をしたり、イートインコーナーで
お菓子を食べていると、
奥の暖簾の先に、智成さんと孫兵衛さんの工房が
ちらりと見えることもあります。
イートインコーナーでは、
つくりたての季節のお菓子や
お茶をいただくことができます。
器、カトラリーえらびも、
名店で修業をしてきた智成さんならではの感覚。
地元や各地の工房から選んだり、
作家につくってもらったものもあります。
たとえば金属のカトラリーは金沢の工芸家、
竹俣勇一さんのものですし、
生菓子のサンプルが入っている箱は
越前漆器でつくったオリジナル(拭き漆)。
下に保冷材が入るつくりで、冷蔵庫要らずなんです。


ふたりのつくるお菓子は、
京都の茶房に卸している以外、
福井のお店のみでの販売を続けてきました。
これは智成さんが帰福し、
店を継承をするにあたって決めたことでした。
「今はもうどこでも地方のお菓子を買える時代で、
ぼくも客としてはすごくうれしいんですけど、
つまらなく感じる部分でもあるんです。
それは消費者としてでもあり作り手の気持ちでもあります。
でも『ここでしか買えない』となると
うちの場合は福井に来てもらうことになる。
そのきっかけをつくるためにも、
オンラインショップ、
通信販売を一切やらずにきました。
ぼくや、父の菓子がメディアに載ると、
買いたい、送ってほしいという電話をいただきますが、
それもすべてお断りをしているんです」
そんな中で始まる「ほぼ日」との取り組みは、
昆布屋孫兵衛の長い歴史で初めてのこと。
孫兵衛さんの言う
「歴史があるからこそ、新しいことに挑戦できる」
そのひとつのこころみです。

2025-10-17 THU