吉本 |
親鸞は、もう浄土なんてのは、
ねぇって言ってますよ。
浄土なんか実体としてどこにあるのか。
親鸞は、それは嘘だって言っています。
浄土というのは、ただ手段にすぎない。
それからもうひとつ、
「死ぬときの念仏は大切だ」という考えは、
中国時代から、代々つづいた
浄土教の教えですが、
親鸞は、それも嘘だと言います。 |
糸井 |
ええ。だって、突然、
死んじゃうかもしれないですもんね。 |
吉本 |
そう。
いつ死ぬか、いつ病気になるか、
誰がどういう病気になって、てさ、
そんなの、わからないですよ。 |
糸井 |
ほんと、そのとおりのことばっかり。 |
吉本 |
それに、「悟った、悟った」と言っても、
病気いかんによっちゃ、
「悟ったって苦しい」ということも
あるわけです。
そんなことは、誰にもわかりはしない。
ですから、臨終の念仏に重きを置くという、
その考え方も間違いである、
そこも、親鸞は明瞭に言い切っている。
何が、何が大切なのか。
何もない、何もないんです。
とにかく宗教、つまり、浄土教のほうから
普通の人の生活のところに近づいていくより
ほかにないよ、ということなんです。
近づいていくんだけど、
一緒にはどうしてもならない。隔たりがある。
そこをどうやって納得するんだ? ということは、
最後の最後まで詰めていっても、残る。
その、残ったところが、
親鸞が自分を
非僧非俗
(ひそうひぞく・僧侶でもないけど俗人でもない)
と称して、
最後まで固執した理由なんです。
その、固執した理由が
浄土真宗というものの教義の中核で、
それ以外の、何もないし、
何もまた、要らない。
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浄土真宗のお坊さんは、いまもそうですよ。
お坊さんが法事でやってきたって、
こっちが酒を出したら、酒飲むしさ。
それでちょっとお経をね、
親鸞でも法然でもない、
蓮如の「白骨の御文章」の
「朝(あした)には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり」
(朝に健康な者も、夕には死んでお骨になる)
みたいなのを読んでいきます。
だけど、こんなことは意味がねぇんだ、なんて
言いますからね。
こういう法事のようなものを機会にして、
親戚や家族みんなが
少しふだんと違った話をね、
できるような雰囲気を持てば、
それが供養なんだとかって
ちゃあんとそういうお説教をしていきます。 |
糸井 |
そんなことを言えるお坊さんというのは、
えらいですね。 |
吉本 |
まあ龍谷大学やなんかいくと、
教えてくれるんじゃないですか(笑)。 |
糸井 |
はははは。
でも、その考え方は、
お医者さんと合体させたらおもしろそうですね。
そのくらいのことを医者が言えたら
医療はガラッと変わるような気がします。 |
吉本 |
ああ、そうでしょうね。
スウェーデンとかデンマークとかオランダとか、
そういうところでは、やれてるっていいますね。
福祉の充実した国では
個人に狙いをつけるんです。
個人個人に狙いをつける限りは、
ほとんど老人まで、
非常に理想的な状態が実現してるというふうに、
北欧を見学してきた日本の人が言っていました。 |
糸井 |
うん。そうなるといい。
すごいですね。 |
吉本 |
すごいですよ。
税金が多すぎるとか文句言うやつ、
若い人もいないと言うし。
(つづきます)
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