BUSINESS
恋はハートで。仕事はマジで!

第12回
自動車というもの
この希有な工業製品を売る資格を有するのは誰か



本ページ、企画もの第3弾として、
自動車に対する我が想いを綴らせてもらう。
自動車に関する他ページが立ち上がったようなので、
そちらとの重複を気にしながらの寄稿となるが、
こちらは幾分色合いの違うものになりそうなので、
楽しんでもらいたい。

私は、無類の自動車狂である。
現在進行形のモータースポーツは勿論、
プロダクションカーの範疇。
更には旧車趣味を含む自動車そのものの歴史。
自動車と人間の関わり方のあり方にまで想いは及ぶ。
今回はその中でも、
「自動車会社にもの申す」といったコンテクストで、
話を進めたい。

<自動車とは何か?:日本と欧州の違い>

ここでは「自動車」とは呼ばず、敢えて「車」と呼びたい。
「自動車」というと、「電子レンジ」「掃除機」と
同じカテゴリーに入りそうなので、
これは避けることとしたい。

車とは我々人間にとって一体何者だろうか。
あまりにも抽象的かもしれないが、
まずはこの疑問から解き明かしたい。
車は元来、欧州が発祥だ。
ダイムラーベンツが19世紀の末期に開発したのが、
始めとされる。この黎明期の「車」の位置づけを
理解することが、人間と車の関係を解く鍵になる。
この時代この地域において、車は「馬の代替」とし、
受け入れられていた。もともと、彼らにとって
「馬」は足代わりであるとともに家族の一員だった。
とうことは、「車」は黎明期において、
「機械ではなく、より身近な生き物」であったということ。

この感覚は、今もなお、
特に欧州の人達には強く残っている。
イタリアで行われるミッレミリアという、
著名なヒストリックカーレースをご存じだろうか。
このレースは公道をそのまま利用して行われるのであるが、
それを自宅前のテラスで老夫婦が観戦する、
などという風景が今でも見られる。
爆音をとどろかせ(昔のフェラーリなど、
日本のちんけな暴走族のマフラー音の数倍うるさい)
ケツを振りながらコーナー(といっても単なる交差点)を、
駆け抜けるスポーツカーを老夫婦が笑みを浮かべながら、
見ているのである。信じられるだろうか。
よほど車が身近な物として根付いていなければ、
こんなことはあり得ない。

もしこれが日本だったらどうか。
日本では車の登場の背景がかなり違う。
戦前から自動車は存在したものの、本格的に日本の
自動車産業が産声を上げたのは戦後である。
そして、「家つきカーつきテレビつき」
というフレーズに代表されるように、
車は高度成長期と共に豊かになってきた日本人を代表する、
耐久消費財の一つとなった。
こうした環境で車と接してきた日本人には、
前述のような欧州人並の感覚は微塵もない。
もし、ミッレミリアのようなことを日本でやれば、
(今年日本版ミッレミリアが
ようやく行われたようであるが)どうだろう。
単なる一部のマニアのものと受け取られ、
公共性のないイベントとして避難囂々だろう。

こうした「車への認識が成熟している」市場に対し、
車を供給している欧州の自動車メーカーが作る車は、
やはり何かが違う。日本の車と比較した場合、
ハードとしては見劣りする側面は否めない。
車を工業立国日本の作った産業財として見れば、
これは当然だ。
例えば、エンジンの馬力、燃費では、同じ車格同志なら
日本車の方が一枚上手だ。
オーバーオールの信頼性なんかも、欧州車の敵ではない。

しかし、だ。絶対的に違うものがある。
人間という生き物として車と対峙したとき、
インターフェイスが全く違うのだ。
例えば、エンジンのフィール、
闇雲に絶対的な馬力のみを追求している訳ではなく、
レスポンスを重視しているため、アクセルを踏んでから、
吹け上がりが根本的に異なる。
更に「匂い」が違う。
車に乗ったときに最初に感じる違いだ。
何故違うのかはよくわからないが、日本の車は、
いわゆる「新車の匂い」がするのに対し、
欧州のそれは「体臭の臭さ」を感じる。
どの部分の匂いなのかわからないが、
とにかく魅力的である。
これはイタリア車、フランス車に顕著である。

<日本の自動車業界への意味合い>

問題なのは、こうした違いを、
日本の消費者が認識し始めているということだ。

私が製品のマーケティングを行う上で、
重視するコンセプトの一つに、
「第一印象マネジメント」というのがある。
新製品を出したとき、
消費者は最初に見た・使ったときの「第一印象」で、
その製品の「定義」を構築してしまうことが多い。
要は第一印象がその消費者の一生の購買履歴を
決定してしまうということ。よって、その「第一印象」を
うまくマネジすることが重要であるというコンセプトだ。
「第一印象マネジメント」である。

大概の製品は、人間が生まれて物心つくころに
無意識にすでに接している。要はその製品に対する
第一印象は頭の中に残っていないということだ。
例えば、
皆さんは「ご飯」を生まれて初めて見たときのことを
覚えているだろうか。そんな人はまずいないだろう。
無意識のうちに潜在意識に入り込んでいるだけである。

しかし、そうではない製品もある。
たばこ、酒、缶コーヒーなどその最たるものである。
たばこ、酒は20才にならないと口にできないし、
缶コーヒーは大学生になるころから飲み始める人が多い。
実は車もそうである。
18才で免許を取るまでは運転できない。
こういう製品の場合、
「第一印象」が極めて重要になってくるのである。

例えば、缶コーヒーというものは一年を通じてみると
その6〜7割はホットで飲まれている。にも関わらず、
消費者の中には「冬でもコールドでしか飲まない」
という人がいる。この原因を追求すると、
なんと初めて缶コーヒーを飲んだのが夏の暑い日で、
その時のうまさが忘れられないとのことだった。
要は、自分で物事を判断できるようになってから
初めて接した製品に関しては、その時の印象が
その後の消費行動を大きく左右するということである。
初めて製品を認識したときの状況が、
その製品を定義してしまうのだ。

これを車に当てはめて考えてみるとどうなるか。
18才で免許を取ったあと初めて車を運転する訳であるが、
その時の経験がその人の自動車観を
形作るということになる。
要は、最初に運転する車が何であるかによって、
その人の一生の車歴が決定されるのだ。

一方、最近、外車の中でも特に小型欧州車は、
基本的なクオリティが上がってきたため
中古車市場でのプレゼンスが大きくなってきている。
昔は、欧州車なんかは新車で買っても、
2日目にはウインカーが落ちたとか
窓が開かなくなったという話をよく聞いた。
最近ではこんなことは殆どない。
中古車でも十分に価値を維持できるようになってきたのだ。
価格も小型欧州車は100万円以下で買えるものも
多くなってきている。「激安外車中古車」系の雑誌も
最低でも3誌は発売されているくらいだ。

これが意味するところは何か。

「最初に運転する車が小型欧州車である」消費者が、
これまでになく激増するということだ。
更にこれは何を意味するか、というと・・
「車とは、エンジンのレスポンスがよい、
匂いのある、生き物のようなもの、
と定義する人が増えるということである。
で、こうした若者が、実は将来、
自動車購買ボリュームゾーンを形作ることとなる。

もはや「いつかはクラウン」
というフレーズは成り立たない。
カローラを入門車として売ることができた時代で、
このフレーズ通りであったが、
これからはもうそれはあり得ない。
彼らが結婚し子供を産み家庭をもつようになったとき、
乗る車は、これまでの常識では想像がつかないことになる。

自動車の製品開発には多大なコストと時間を要す。
こうした、静かに、しかし確実に起きている
消費者の選好の変化を迅速に理解し、
いますぐ製品開発に活かしていかないと、
気づいたときには手遅れだ。
日本の自動車メーカーのうち、こうしたことを
理解できている会社はどれほどあるだろうか。
10年後、日本は既に
自動車生産大国ではなくなっているのかもしれない。

1999-01-04-MON

BACK
戻る