「ほぼ日」糠漬け部、活動中
   
モギ
モギの糠漬け
1 「糠漬け」における
保守党の誕生。
モギの糠漬け
一見ふつうのトマトであるのだが。

寒くなってきたので、
キュウリはどうも、体を冷やしそうなので、
ウチドメにした。
しかし、シーズンオフとなる前に、
味噌漬けへの愛がいかんともしがたく、
再びキュウリの味噌漬けを作った。
来年を待つべし、待つべし。

糠漬けのほうはといえば、
いまは、大根の古漬に凝っている。
大根を「グループ1」「グループ2」「グループ3」と分け、
時間差をつけて漬けていき、
大根が全体的に透明になったら食し、
つぎの「グループ」を漬込むということにしている。
「夏には夏の野菜を、冬には冬の野菜を」
これが父の遺言である、訳ではないが、
そうしている。

さて、私は今までに、
「エリンギ」「アスパラ」「セロリ」
「万願寺唐辛子」「ピーマン」「ゆで卵」などを
糠床に仕込んできた。
そして、そのどれもが、
継続して漬けるに値しない味であると判断した。
しかし、それでも、新しい糠漬けへの探求心が止みがたく、
先日ついに、最後の砦としてのこしておいた、
「トマト」に手をつけることにした。

日本におけるトマトの歴史をひもとけば、
それは、江戸時代に伝来したといわれているが、
当時は青臭く「赤」という色が敬遠され、
もっぱら観賞用であったという。
明治期にはいって、食用とされたが、
日本人の舌にあうように品種改良されたのは、
昭和にはいってからだという。
つまり、日本においては比較的新しい野菜であると言えよう。
糠漬けにしようという動きが仮に他でもあったとして、
それは、ごくごく近代における糠漬け事情であったと
推察するに十分である。

ここで私は考える。
普通の大きさのトマトであると、
丸ごとつけるわけにもいかずに、
輪切りとする他に無いが、
だとすると、あの種の部分を処理せねばならない。
それはムダであるし、だいいち面倒である。
そこで、スーパーでは「ミニトマト」を購入。
しかし、ヘタ付きで漬込むと
糠床のつけいるスキがなく、
まったく浸からない恐れもあるので、
ヘタ付き、ヘタをとったものの両方を漬込んでみることにした。

待つこと3日間。

見た目にはほとんど変りがない。
一つ、口に放り込んでみる。

ま、まずい!
なんとも、まずい。

ルックスはふつうなのに、
微妙な塩加減がするところですでにアウトなのに加えて、
糠臭とトマト臭はあわないと私は思った。
私は再び「新しい糠漬け」の試みに失敗したのである。

*****

さて、こうして、
いろいろ漬込んでは失敗を繰り返してきた
自分の行いを振返りつつ、考えてみる。

なぜ、店頭で販売されている糠漬けの多くが、
「キュウリ」「ナス」「蕪」「大根」どまりであるのか、
冒険をする前に、
まずは考察すべきだったのではないだろうか。

糠漬けが生まれたのはいつごろかはしらないが、
ともかく、先祖に私と同類の
糠床クエストをした人物がいなかったわけでは有るまい。
その先人たちが、
いろいろな野菜を試さなかった筈がないのである。
しかし、そうして挑戦を重ねたにもかかわらず、
残っているのは、
「キュウリ」「ナス」「蕪」「大根」なのである。

つまり、やはり、
これ以外の野菜は、「そんなにうまくない」。
ということではなかろうか。
これが、糠漬けの
「歴史&伝統」により導き出された結論であると思う。

元来、私は、どちらかというと、
歴史と伝統を重んじるほうである。
正月には屠蘇をいただき、節分には豆をまき、
桃の節句にはひな人形を飾り、盆には先祖を迎え、
クリスマスにはメリークリスマス!
さらに、夜には口笛を吹かずツメを切らず、
朝に出るクモは殺さず、
初物をたべれば、
西を向いて「なむあみだぶつ」を唱える、
(だだし我が家は曹洞宗)
そのように生きてきた。

しかし、こと糠漬けに関してのみ、
なぜ私は、それを無視してしまったのかといえば、
「糠漬け」という行為が、
自分にとって「新しい」ということから、
糠漬けにおける歴史と伝統について、
思いを馳せることができなかったのである。

そうして、それからのしっぺ返しは、
「新しき野菜」に挑戦する度の
「まずさ」であったと言えよう。
「トマト」まで行く前に早く気がつくべきであった。

まるっきりのアホウである。

糠漬けに革新なし。
リスペクト・トラディショナル!

ただし、私が挑戦した野菜たちの種類が
少なすぎるというご意見もあるであろう。
高級スーパーには、ビーツだとか、チコリだとか、
香菜だとか、エシャロットだとか、
もしかすると、ブレイクスルーの可能性が
販売中かもしれない。

ただ、私はこと糠漬けに関しては
伝統に生きることを決めた。

とじる