2025-05-18

・〈あきらめと、しつこさ〉

なにごとにも、「あきらめ」が含まれている。これ以上を望んでも、それは無理なのだと知ること。知って、それを受け入れること。かっこよく言ってしまえば「諦念」ということになるかな。もっともっとと欲を張ることもあるのだけれど、このあたりでいったん忘れよう、というのも「あきらめ」のかたちだ。

京都の竜安寺にある蹲(つくばい)に彫られた「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」についても、闘争好きな人なら「足らぬことをなぜあきらめる?」と、腹立たしく感じるのかもしれない。まぁ、そういう「もっともっと」という気持ちはどんな人間のなかにもあるからこそ、「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」という逆説的なことばが、人の心に波紋を起こすのだろう。

金でも、権力でも、人気やモテでも、美でも趣味でも、粋やらお洒落でも、もういっそ侘びや寂びでも、どこかで「あきらめ」を含んでいないものは、あんまりかっこよくないように思える。なんというか、「あきらめ」と「わきまえ」は、とても近いところにあるようだ。

とか言ってる、同じワタクシが、しばしば「しつこい」ということについて感心している。たぶん、ゲーム性の強いものごとにおいてだと思うが、「あきらめてなかったんかーーい!?」と拍手喝采したくなるプレイが現れることがある。そうそう、そうだ、あんたのおかげで救われた。先にあきらめたわしが悪かったと謝りたくなったりね。基本的に「あきらめ」を大事に考えているぼくは、同時に「しつこさ」を尊ぶ人間でもあるのです。じぶんでも、もっと「しつこさ」を発揮したいと思うし、時にはそういう場面で、「しつこさ」で呆れられたい。

また、「どっちなんだよ」とツッコまれそうな話になったが、どっちもほんとうなので、そのまま言うしかないのです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。8割があきらめで、5分がしつこさかな。あとの1割5分は空気?

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