選んだのはオレだ
淡々とした山ごもりが続いている。
あまりにも淡々として、
夜になってバーナーを置くときになって、
確かに過ぎ去っていった
<昨日>も<今日一日>というものは、
いったい何処へ行ってしまったのかと思う。
昨日、今日の区別すら付かなくなっているのだ。
しかし足元を見れば刻み続けている
三千枚への鉄片がうず高く積もって、
どうやらそろそろ千枚。
ヴェネチア・ビレンナーレ地区にある
オレの個展会場であるフランシスコ教会の回廊
三分の一を巡る量である。
朝焚いた粥を温める。
ヴェネチア・ビレンナーレ2003の年が始まって、
いよいよ風雲急を告げてきた。
会場の寸法をはかったり、
オレが必要としているスクラップの船を調達したり、
作業スペースを確保したり
オレのアシストをしてくれている
ヴェネチア・ムラノ島のマエストロTSUCHYが
日々Eメールで連絡してくる。
生真面目な青年だ。有難い。
この歳まで<ヴェネチア・ビレンナーレ>
というものをよく知らなかったのだが、
たまたま2002年に
ミラノ・MUDIMA美術館で一ヶ月間のショーを
自費で開催したら、
予想だにしなかったトンでもない盛況に終った。
スッテンテンになって後片付けしていると、
PAOLOから
「2003年は五十回記念なんだけど、
MUDIMAで成功したKUMAは是非参加するべきだ」と
いうことになった。
三月にはジャパンから搬出しなければならないが、
「ヨシッ、往ける処まで行ってみるわい」
二つ返事だった。
食いつなごうと思っていたコレクターからのゼニを、
契約金に変えてしまった。
スッテンテンになってしまえば
<老後>なぞという<未来>すらも
無くなってしまうものだ。
今に来る今に来るぞとまだ来ない未来の老後に、
ゲージツ家が怯えて蓄えるゼニもジカンもないのである。
六月から五ヶ月間のロングランだ。
ゼニや時間が十全では無いことがゲージツ家にと
って何の言い訳にもならない。
村上隆が
「奇跡を起こすことは難しいことだけど、
奇跡を起こしたら二度も三度も起こせるよ」
と言ってくれた。
オレという箱のウチにはゼニは残っていないが、
『MILANOでの奇跡をヴェネチアで再び』
の体力と気力だけはまだあるようだ。
粥を喰い終わって開いたパソコンに
TSUCHYからの心強いメールだ。
『昨夜ヴェネチアで大きめの展覧会の
オープニングがありました。
思いもしない所の人達が
(結構北欧でくまさん有名なんですね。)
ようやく、日本もKUMAを出してきたか!
みたいな感じで言っているのです。
ビエンナーレの上の幹部、
そしてなんと代表取締役までが、
日本はなぜKUMAを今まで、隠していたのか。
そんな風にまで言われているみたいです。』
オレはジャパンからの援助を受けたわけでもなく、
オレというゲージツの参加だ。
ましてや日本に隠されていたわけではない。
オレがビレンナーレを知らなかっただけなんだ。
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十五センチ角で三メートルのヒカリの柱を
一〇本必要とするオレのインスピレーションは、
巨大だったサイバーKILNさえすでに凌駕していた。
窯より大きなヒカリは溶かせないから、
去年の暮れに頼んでおいた<OHARA硝子>へ見に行く。
山ごもりの工場を出て電車を乗り継いで相模原。
ゲージツ家の決死の経済交渉だ。
羽部社長の口添えもあって理解を示してくれた。
土臭い彼の茨城弁とアナゴの天麩羅で
今年初めての芋ジョーチューを呑んだ。
闇の山並みに映る少しやつれた酔っ払い顔の最終電車。
残りのジカンは全部粥で過ごしても構わない。
もっと遠くまで往くのだ。
雪掻きをしてないまま凍った路に足を取られながら、
山奥のFACTORYに辿りついたのは真夜中を過ぎていた。
なんとも燃費の掛かる人生だわい。
選んだのはオレだ。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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