黄砂の海
昨夜の気象庁予想で、
三崎のどの港からも船は出ない予定だという。
朝五時眼を覚ますと、完全にクールダウンした頭蓋と同じに、
快晴の城ヶ島は嵐の気配さえ無かった。
「こりゃあいけるね、カブさん!」オレは叫んだ。
カブさんが起きぬけにケイタイで探しまくった
松輪港から出るイカ釣り船に乗る。
昨日も同船したウニ坊も一緒だ。
早稲田理工学部の大学院で生物物理の<発生学>を学び、
日本中の海でウニを採集しては受精させ
発生の起源を研究しているうち釣りに嵌ってしまい、
あっさり博士号の道を捨て船長の息子に勉強を教えながら
釣り雑誌のカメラマンをしている青年がいる。
置き竿にマダイの魚信待ちながら、
甲板でオレに発生学とやらを講釈し、
今でもウニの卵巣と精巣の味を判別出来る彼は、
オスもメスも混ぜ込んで<ウニ>と称したモノを喰って
喜んでいるヒトを気の毒がる。
ウニなぞ喰わないオレには、
精巣が微妙に酸っぱいことも知らない。
イサキの仔は、イノシシと同じに子供ジダイにだけ
横っ腹に線があることから<ウリ坊>という。
青年は昨日から<ウニ坊>になった。
最終日も何とか海に出た。
江ノ島沖までフルスロットルで四十分、
キンタマの裏にエンジンの振動が伝わってきた。
カブさんの大きな釣りバッグの中は、
イリュージョンのように釣りに必要なモノが詰っていて、
もちろん新作のMISAKIのイカツノ・バージョンを、
まだヤリイカを始めて間もないオレの分まで次々と取り出す。
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一〇〇メートル海底に沈めたツノに
フワリと載った感触をひたすら巻き上げ、
ちょっとでも弛めればイカはフワリと外れる。
突然ズシンと重くなり二ハイは固いと丁寧に巻き上げると、
上から二番目のツノを飲み込んで
大きなマトウダイが揚がってきた。
次の感触をすかさず巻き上げると、
予想通りやっぱしヤリイカだった。
しかし、釣りはここまでだった。
無線に剣崎沖で十六メートルの波、
予想通り強烈な低気圧が近づいていたのだ。
逃げなくちゃ。
すでに激しくなったウネる海に揺られながら
全員急いで仕舞い支度。
またフルスピードで逃げ帰った。
黄砂の強風が吹きすさぶ小さな漁村で、
婆さんも野良猫も桜もが地面を横すべる中、
風を避けた日当たりで黒い陰をくり抜いていたのは、
昨日の黒ネコだった。
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ニュージィランドで11.5kgの大鯛を釣り上げた時、
同船したKINGFISH LODGEのオーナーのエヴがオレに言った。
「イイ仲間とイイ海に漂うだけで
フィッシングの大半の目的は達成しているんだ。
その上、魚が釣れればもう言うことはない」
海に漂いながら方向を見つけたOBJEに向かって、
明日からいよいよ激しいゲージツの再開である。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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