液体ジカン
熊野の山奥に棲むピッカリ君に、
太地の捕鯨について電話で聞いていた。
今度オレの取材旅に同行してくれることになった。
その頃はまだ降ってなかった。
銅板を刻んでいた夜中、
全ての気配を吸い取ってしまうような寒さに
外に出てみると、工場付近は真っ白で、
本格的な雪が降っていた。
こんな雪は久しぶりで嬉しくなり、
しばらく、開けた口で降ってくる雪を受けて遊んだ。
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銅板に刻んだ太い線や、
ドロッピングをもっと濃い色にするための
アクアチント・ボックスを作ったり、
白ロウと松ヤニとアスファルトを煮詰めた
物凄い臭気、手製の液体グランド作りである。
年が明けてからの山籠もりは、
この歳になって銅の腐刻画を独学する
エキサイティングな日々だ。
勝沼でワイン作りをしている
ワイナリーを訪ねる朝になっていた。
連れの車で勝沼のワイナリーに向かう。
雪に包まれていた鳥居平の葡萄棚の傍で、
初対面のオーナーが立っていた。
彼のコレクションの
シャガール版画で飾られたレストランで、
葡萄の絞り滓で育ったというワインビーフを馳走になった。
普段、肉を口にしないオレは、
ワインにも詳しくないのだが、
エロティックな版画の話をしながらのワインは美味かった。
すっかり話が盛り上がる。
「地下の酒蔵を見るかい、誰にもまだ見せてないんだ」
蟻の巣のように巡らせた暗い地下セラーを
懐中電灯を頼りにいく。
埃や蜘蛛の巣がはったまま横たわっている
古い一升瓶群が鈍く浮かび上がった。
「この辺は100年前のワインだよ。
この蔵全部で、40万本は睡っている」
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勝沼盆地を見おろす彼の応接間に上がると
またもシャガールがいた。
いつの間にか持ち出してきた50年前のワイン。
「これは記念に持って行って」
同じ時期のワインの栓を開けてくれる。
滲みだしたワインの酒精に
酸化した長いジカンが張り付いたコルク栓、
もちろん瓶も埃が焼き付いたように半透明になっている。
もう30年ほど前、深澤七郎親方の
<ラブミー農場>で書生をしていた頃、
石和出身の彼は
「これは勝沼の知り合いの酒蔵のだ、
町には出ないものらしい」
と言って飲ませて頂いた、
汚れた一升瓶のワインを思いだした。
夜、頂いた古いワイン瓶を抱えてエッチング部屋に戻った。
液体時間をたらふく呑んだイイジカンだった。
明日は立春、ストーブを点けても暖まらないワイ。
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