その弐拾四・・・硯
小林「しまった!」
弟子「どうしたんですか?」
小林「書き初めするのを忘れていた!」
弟子「そういえば、そうですね」
小林「筆下ろしをして書き初めをしないと、
どうもあそこの調子が悪いんや」
弟子「えらいことですね」
小林「それに今年は、
ついに幼稚園の時からの夢をかなえるで」
弟子「どんな夢ですか?」
小林「耳を貸してみい」
弟子「うげええええい!」
幼少の私は、姉が墨をする姿を見てこう思った。
硯(すずり)って、和式便器そっくりだ。
平らなところがするところで、
水がたまっているところが墨をためるところ。
この真っ白な便器で墨をすったら
どんなに気持ちがいいだろう。
それに硯ではすぐに墨がなくなってしまうが、
便器いっぱい墨をすっておけば
いくらでも書けるじゃないか。

だけど、できなかったのだ。勇気がなかったのだ。
今は違う。俺は俺の足で立ち、俺の道をゆける。
だが困ったことに、家の便器は和式ではない。
洋式ではすった墨がすぐに下に流れてしまい、
うまくいかないだろう。
私は無理を承知で、
古い木造アパートに住む友だちに連絡した。
小林「もしもし、小林です。
ところで、便器を貸してもらえない」
Nくん「何で便器なんか貸さなきゃいけないんだよ」
小林「便器を硯にして、墨をすりたいんだよ」
Nくん「そういうことか。いいよ」
さすがNくんだ。並の人間だったら、
自分の便器で墨をすられるなんていやがるだろう。
Nくんはふたつ返事でOK。
さっそく弟子の北小岩くんとNくんのアパートに向かう。
小林「いやあ悪い悪い。俺の昔からの夢だったんだよ」
Nくん「好きに使ってくれよ。洗っといたよ」
こういう人のことを、真の男というのだろう。
さっそく墨を取り出し、真っ白い便器に押しつけた。
グッと力を入れてみる。
便器は硯よりも滑りやすく、
油断をするとツルッと滑ってしまう。なおも力を入れる。
ポチャッ。しっ、しまった。
水がたまっているところに、墨を落としてしまった。
でもしかたない。
覚悟を決めて水に指を突っ込み墨をとった。
一度水に指をつけてしまえば、もう大丈夫。
それからは力を全開することができ、
順調に墨はたまっていった。
小林「ほな、書こうか」
『お年玉』
『大願成就』
『赤穂浪士』
次々に、作品が生み出されていく。
『福万』
弟子「あれ、先生! これ、
泣いたように文字がにじんでますよ」
小林「ほんまや!」

心を込めて書き上げた『福万』の文字が泣いているのだ。
何が悲しくて泣くのだろう。
私は筆下ろししたばかりの筆で、
『福万』の横に『愛』と書いてみた。
『福万』が微笑んだ気がした。
そういえば高校の一年先輩に
「福原万子」さんという人がいたが、
あれはなんて読むのだろう。
今頃「井伊」などという人と結婚してないだろうか。
う−む、心配だ。
|