糸井 | プロデューサーアートっていうのが あるじゃないですか。 |
日比野 | ああ、ありますね。 |
糸井 | そこまで広げていくと、 なんでもありという気もする。 |
日比野 | うん。 |
糸井 | 自分が手を使って、汗かいて、ということを、 どこまでも遠くまでやっていけば、 ついには幻のアートということに なっちゃって、 あ、いけねぇって戻ってきたり、 また行ったり、みたいなことになる。 それをみんながくり返してるんじゃないかな。 |
日比野 | うーん、そうですね。 個人として突き詰めることについては、 たしかに、先のことが できあがってない気がしますね。 |
糸井 | グルメの究極っていうのもそうでさ。 個人としてあれがうまいだとか あの人はわかってるとか言うけど、 そこはとっくに終わってて、 グルメは「人に食わせるところ」に 行ってるよね。 |
日比野 | ははははは。 |
糸井 | 「日比野くん、これ食ってごらん」 って、日比野くんがうまいと言ったら、 「日比野のうまいはオレのうまいなんだよ!」 というところに、グルメは行ってると 思うんだよ。 あるいは、料理をつくるほうに 行ったりしてると思う。 |
日比野 | うん。あのですね、僕も、 絵を描いてて思うんですけども、 しょせん、絵も 伝わってナンボのもんなんです。 |
糸井 | うんうん。 |
日比野 | 自分が絵を描いて、アトリエの中で いいなと思うとします。 でも、それだけじゃダメで、 人に見せたときに、 「日比野くんの絵は好きだ」とか、 「いいな」とか、 その人が思ってくれる瞬間が その絵の持ついちばん大切な部分なんです。 それは、その絵がすごいんじゃなくて、 その、たかがダンボールの上に 色が乗っかっているだけのそれに、 「そこで感動できるおまえがすごい」 ということなんですよ。 |
糸井 | うんうん。 |
日比野 | 絵描きである僕も、 そういう感覚には、なってます。 だから結局、僕らのやってることは それぞれの受け手の中にある いろんなその絵を見る力とか、 感動する力をどうやって引き出すかみたいな、 そんなこと。 |
糸井 | よくわかる。 |
日比野 | それを、もう、 ひたすらやってるんです。 |
糸井 | それは、個人の時代が終わったってことも あるのかもしれない。 日比野よりオレのほうが上だとか、 日比野に負けただとか、 そんなこと言ってるのが みすぼらしい、って 本気で言っちゃえる時代が 来ちゃったんでしょうね。 |
日比野 | うんうん。 |
糸井 | インターネットのおかげで いろんな人がなにを考えてるか、 だんだん、わかるようになってきました。 普通の人たちの考えが。 |
日比野 | うんうん。 |
糸井 | 「今度、どこどこ行きませんか?」 と言ってる人がいても、 本当は、どこでも、どっちでもいいんです。 いっしょの場所にいて、 他人の口を自分の口として、 おいしいと思う感性、 さっきの日比野くんの、 「見たおまえがえらいんだよ」 って言ってるときのうれしさを、 みんなが求めている気がする。 そこまで行って、はじめて アートと言えるようなこと、 それを、やってみたいよね? |
日比野 | ね? |
糸井 | 日比野くんのあの展覧会は、 もう、その入口にいると思います。 |
日比野 | あの2005年の展覧会は、 そのきっかけだと思います。 |
糸井 | だって、東京から水戸まで 電車に乗って観に行く人がいっぱいいたけど、 その行為からしてアートだよね。 |
日比野 | そうですよね。 |
糸井 | その土地も、見る人も、 どっちだなんだかわかんなくなる仕事が どんどんおもしろくなってると思う。 茨城でオレがあんなに喜んだのは 日比野くんだったら、わかってくれるかもな、 って思えたのかもしれないな。 単にプロデュースってことじゃないんだよ。 もっと、アートなんだよ。 |
日比野 | そうですね、アートですね、これは。 |
糸井 | プロデュースってね、 やっぱりちょっとまだ、 金だの日取りだのコントロールが 重要すぎるんだよね。 もっと、いい加減なものとして みんなに食ってもらうのが、 アートとして「あたり」なんだ。 |
日比野 | そういうなかで、 『おめでとうのいちねんせい』が 復刊されるのも、 アートかもしれませんね。 |
糸井 | みんなが「出してくれ」って 言ってくれたわけだからね。 行為としては、 ものすごいおもしろいよね。 『おめでとうのいちねんせい』 こうなったらいっそ売れるといいね。 |
2009-02-16-MON