![]() |
もってけドロボー! 斉藤由多加の「頭のなか」。 |
タワーGBA発売日によぎった想い出 この原稿を書いている本日4月28日、 「タワー」がやっと発売となりました。 みなさん、連休は家電店などによって 買ってやってください。 ニンテンドーゲームボーイアドバンス用です! さて、ここにきて急に発売がきまったものだから、 どたばたとやっておりました。 連載も滞りがちでごめんなさい。 さて、今回は、タワーにまつわる思い出話を 書こうかと思います。 タワーというのは、雑居ビルを 複合高層ビルへと変貌させるゲームです ![]() ↑プレイヤーの好きずきですが、 結果的にはこんなような 高層複合ビルを作る事になります。 複合高層ビルというのはつまり閉鎖都市なわけで、 住人たちの要望する機能がどんどんと増える、 それにあれこれと応えながら拡張してゆくわけです。 その肝となるのがエレベーター待ちのストレスで、 待ち時間が一定をこえると 彼らは出て行ってしまう→収入源が減ってしまう、 というトレードオフ構造がここに生まれ ゲームとなるわけです。 ![]() このタワーというゲーム、 1994年にマッキントッシュ用に 小規模に発売されて以来、 数えきれないスタッフの手を経て 数多くのバージョンアップ重ねていった作品です。 メイキングの話をすると、 サラリーマンをしていたときに、 新規事業の実験でゲームをメディアにしようという 実験的な動きがあって、 その流れで2本目をいわゆる脱サラして つくりはじめたものでした。 お金がないのでマック用として作り始めたわけですが、 当時のマックはまだモノクロームモデルも少なくなく、 デザインはモノクロームでしこしこと開始した次第です。 したがって動きはハイパーカードで シミュレートするなどして企画をすすめてました。 その当時の貴重な画像が残っているのでご紹介します。 ![]() ある段階からは、当時としては貴重な マックプログラマーさんをなんとか見つけて 決して高いとはいえない仕事のお願いを することになるわけです。 一番最初のバージョン「Tower1.0」は、 フリーのプログラマーA・Tさんと私とで作られました。 今では連絡先すらわからないA・Tさんですが、 感謝の念がつきません。 そして開発も佳境に入ると マックが16色から256色に移行しはじめ、 あわてて後半から堀田さんというデザイナーに ドット絵の手直し・追加を依頼。 Photoshopはあまりホピュラーではない当時は、 スタジオ8というドットペイントのソフトで デザインしていたのを記憶しています。 エレベーターの運行管理をモデル化するという 複雑な作業では脳みそがウニになるほど苦しみましたが、 解決の鍵は以前に NHKのクローズアップ現代という番組で 特集されたのでここでは割愛します。 で、長い経緯を経て発売となったのが このたびゲームボーイアドバンス用に出した 「ザ・タワーSP」の原型です。 初回は3000本。ゲームとしては 「たったの」という表現に なってしまうかもしれませんが、 当時のマックのソフトとしてはかなりいい数字でした。 ![]() ↑記念すべきタワー最初のバージョンのパッケージ フロッピー複製業者さんにあいみつをとって 一番安いところで複製してもらい、 自分たちで箱詰めして、という 限りなく手作業での初出荷です。 メディアネットワークさんという マック関連商社の手を借りて 専門店に卸してもらいました。 人がいないのでユーザーサポートも もちろん自分でやってました。 複雑系のソフトですからバグもあちこちにあって、 なかでも一番想い出深いのは 当時のマックでCentrisAVという テレビ互換モデルの特定のロットとの間で 原因不明の不整合が発生し、 ずいぶんと苦労したことです。 このバグの原因はいまだに謎で、 このロットが市場から消えてゆくことを 願うしかありませんでした。 バグが完全になくなった時には いつしかバージョンは1.2にまで進んでいました。 1995年のことです。 ![]() ↑タワーのパワーブック180c上でのデバック風景。 当時の開発現場は駒沢の一軒家でした。 ![]() ↑最初の印刷物の色校をチェックしています。 あれよあれよという間に増刷を繰り返し、 社員も増えていったのですが、 ブレイクのきっかけとなったのは海外デビューでした。 シムシティーの成功で急成長しつつあった MAXISの創業者と カンファレンスで出会ったのがきっかけです。 MAXISの会長は契約で渡米した時に 「君の会社ごと買おうとおもっているんだけど、 どうだい?」と聞かれたのですが、 操業したてで夢多き私はつい断ってしまいました。 もしその時にYESといっていたら‥‥ 今私は世界の大手エレクトリックアーツの 大株主になっていたことになります。 世の中、商売に意地は禁物ですよ、みなさん! 話は戻って海外版への移植にあたっては、 『なぜ夕方になるとカラスが鳴くのか?』 という私たちにとってはごく自然な習慣への 質問からはじまり、 「大聖堂の十字架をとってください」 「ゴミ処理場はrecycling roomとしてください」 といった事まで、 とにかく文化の違いに驚く事ばかりでした。 そしてその成果は 「シムタワー」という名のタイトルとして帰結しました。 このタイトルのヒットが私たちの ゲームデベロッパーとしてのキャリアに 大きくプラスしたことはいうまでもありません。 ![]() ↑海外ではシムタワーとして発売。 今回のGBA版タワーを 海外のディストリビューターに 評価してもらったところ、 「シムタワーに酷似しすぎている」という評価が‥‥ 今回この時期に任天堂タワーを再発売した背景には いろいろな理由がありますが、一番大きかったのは、 新作(大玉)の開発に入る前に 一度ゲームの基本形をおさらいしておく、 という意味が大きかったように思います。 GBAという小さな箱の中に 巨大なビルを自由につくれる環境というのは、 実にハードルが高く、 開発が2年半におよぶ結果になることなど、 想いもよりませんでしたが‥‥。 思えば一つのタイトルが10年という時を超えて 再発売されるというのは、 極めて異例のことだと思います。 素直に嬉しいし、 GBA版は息の長いタイトルになると思います。 いろいろと紆余曲折のあったタイトルですが いまとなっては連絡がとれなくなってしまった スタッフたちにもすこし成長したいま、 改めて御礼をいいたいです。 |
斉藤由多加さんへの激励や感想などは、
メールの表題に「齋藤由多加さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ろう。
2005-05-02-MON
![]() 戻る |