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かの文豪スタンダールは、
フィレンツェやシエナなど、
トスカーナの各地を訪れたのちに、
こう書きました。
「お前を知ったが故に、私の心は永遠に変った」と。
彼が体験した症状は「スタンダール症候群」または
「フィレンツェ症候群」とも呼ばれ、
精神身体医学上の「病気」として、今も残ります。
その症状は、あまりに素晴らしい芸術品などに衝撃を受け、
心悸亢進(しんきこうしん/心臓の鼓動が気になる状態)や
めまいを引き起こすというものです。
スタンダールが美しさと素晴らしさに打たれた、
シエナのドゥオーモや洗礼堂やカンポ広場、
そして街を取り囲む丘は、
今もそのまま残っています。
僕は先週、そのシエナにいました。
ここでの目的は、
噂に高いこの街の素晴らしさを見ること、そして、
その「ほとんど病気」の体験が本当にできるものなのか、
実験してみることでした。
まさに興味津々で、ぼくはシエナに踏み込みました。
そして、すぐに分かりました、
フランスの偉大な作家スタンダールが
病気のようになってしまったのも、もっともだったと。
スタンダール症候群は本当に存在します、
ぼくは実際にそれを体験しました。
中世時代のままの細い路地を抜け、
白と黒の大理石でレース模様のように
浮き彫りが施されているドゥオーモ(教会堂)が、
いきなり目の前に現われた時、
ぼくはほとんど具合が悪くなりました。
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ドゥオーモの向かいにある建物の壁に
寄りかかってみたものの、
ぼくの頭はくらくらし、目はくらみ、
膝はガクガクしていました。
トリ肌もたっていました。
やがて目には涙が勝手ににじみ出て、
感動のあまり、ぼくは、ほとんど泣きそうでした。
64歳になった現在まで、
ぼくは世界各地の多くの美しい場所を訪れ、
多くの芸術品や遺跡、不朽の名作などを見てきましたが、
本当に正直に言います、
シエナのドゥオーモほど美しい物は、
今まで見たことがありませんでした。
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完璧さの代名詞とも言える花に例えるなら、
その中でも最も美しい花、
海に落ちる夕陽が人間の魂を感動させるのなら、
とりわけ輝きに彩られた夕陽、
心をなごませ感動を与えてくれる
子どもの笑顔に例えるなら、
それは永遠に微笑む子ども‥‥
そしてそれら全てをあわせ持つシエナのドゥオーモ。
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内部には、何世紀ぶんもの空気があります。
世間を駆け抜ける時間の神が、
そこに留まっているかのようです。
ここの説教壇は、
あのミケランジェロも賞賛しました。
彼はこのドゥオーモに影響を受け、
言葉を発しさえすれば実物の人間のような彫刻群を、
その手で創りました。
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カトリックのクリスチャンが洗礼を受け、
名前を授けられる場所である洗礼堂が、
ドゥオーモのすぐ近くにあり、
さらに50メートルほど下ると、カンポ広場があります。
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少し斜面になっていてアシンメトリックなこの広場は、
聖母マリアがこの地に出現したとされる7月2日と、
その聖母被昇天祭の8月16日の年に2回、
文章で説明するのが難しいほどの大変身をとげます。
まず広場に、打ち固められた競技用のコースが作られます。
パリオという、世界で最も古く、
情熱的かつ過酷な競馬が展開されるのですが、
これが、勝利のためにはあらゆる不正が、
対戦相手の買収まで許されるという、
ウソのようなレースです。
中世の都市の地区区分に従い、
「コントラーダ」と呼ばれる
各地区から出される騎手たちは、
鞍を付けない、いわゆる「裸馬」に乗ります。
広場を3周するするレース中に馬は血だらけになり、
動脈瘤が原因で死ぬことも珍しくありません。
普通の力の限界以上に走らされる可哀想な馬は、
ドーピングの薬を与えられている場合もあって、
しばしばレースにもちこたえられず、死に至るのです。
パリオの競馬に優勝した地区には、
著名な画家の描いた布製の優勝旗(パリオ)が与えられ、
その地区の教会に騎手と馬とが凱旋入場して、
栄誉を讃えられ、来年まで、
つまり次のレースまでの1年分の祝福を受けます。
さて、通常は穏やかなカンポ広場には、
マンジャ塔を備えた市役所の建物があります。
空に向かってそびえ立つエレガントなマンジャ塔は、
特に天気の良い日には、またとない美しさです。
スタンダールが
「シエナ、お前を知ったが故に、
ぼくの心は永遠に変化した」と言ったのも、
ごもっともなことです。
ぼく、フランコ・ロッシの方が
彼より先にシエナを訪れていたら、
(そんなことはあり得ませんが)
フランコ・シンドロームが歴史に名を残したでしょう‥‥。 |