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フランコさんのイタリア通信。 |
アズーリ新監督、 ロベルト・ドナドーニへのインタビュー。 先日ぼくは、あるパーティーに出席しました。 主賓はイタリア代表チームであるアズーリの 新監督、ロベルト・ドナドーニ氏で、 そのパーティーは、まさに彼の故郷で開かれました。 ミラノの北東に位置するベルガモの近郊にある、 チザーノ・ベルガマスコという街です。 少し風のある涼しい秋の宵でした。 その晩餐会は招待によるものでしたが、 チャリティーで集められるお金は、 視覚障害のある子どもの病院を援助するために 寄付されることになっていました。 W杯に優勝したチームを監督するという 困難な遺産を引き受けたロベルト・ドナドーニですが、 このパーティーでの役割も大変に感激して引き受けました。 選手たちも参加したかったことでしょうが、 金曜日の夜に催された会でしたから、 次の日にはカンピオナートを闘う選手たちにとって、 スケジュール的に出席は無理でした。 でもカカとインザーギは自分のシャツを、 お馴染みのオークションのために出品していました。 カカのシャツは1500ユーロ、 インザーギのは1600ユーロの値がつきました。 1600ユーロで24万円弱ですから、 とても良い値段ですね。 でもそれ以上で最高額を付けたのは、 もう1人の世界チャンピオン、 ジェンナーロ・ガットゥーゾのシャツです。 2200ユーロを支払ったのは裕福なお医者さんで、 そのシャツをご自分の10才の息子のために 競り落としたとのことでした。 ![]() ドナドーニ監督自身は、 200ユーロで渡される小さなボールと、 100ユーロの何枚もの写真にサインしました。 ![]() この夜、 選手たちのシャツやボールや写真の代金と、 そして晩餐に参加した人びとの寄付も合わせて、 視覚障害の子どもたちの病院に贈られるのは 10万ユーロを超える額となり、 誰もが幸せそうでした。 ![]()
ロベルト・ドナドーニが、 かれこれ20年ほど前ですが、 まだとても若くしてACミランに入り、 すぐに完璧なチャンピオンとして人気を得た時から、 ぼくは彼を知っています。 彼のサッカー選手としてのキャリアは桁外れですが、 監督として大いに恵まれたとは言えません。 でも、世界チャンピオンのアズーリを指揮する今、 ジェノアとリヴォルノから解雇された時の苦い思い出は、 忘れ去られたことでしょう。 さて、アズーリの監督としての最初の数試合は、 2敗1分けですから 「輝かしいスタート」ではありませんでした。 それでもなおドナドーニが、 国際的なサッカー界の第一人者であることに 変わりはありません。 その夜、ぼくは彼のそばに座って、 「ほぼ日」のために彼について何か書きたいと伝えました。 彼は意欲的にOKしてくれました。 ![]() 「ぼくのキャリア上のとても良い思い出は 日本とつながっています。 1989年のトヨタカップ決勝戦を ナシオナル・メデリンと闘うために、 ぼくは初めて日本に行きましたけど、 その時からあの国に好感を持っています。 翌年も日本で、今度はオリンピアと闘い、 もう1回トヨタカップを勝ち取りました」 ──でもその時代に日本ではサッカーが 今ほどの次元ではなかったですよね? 人気面も経済面も‥‥。 「そのとおりです。 スキラッチがキャリアの最後を飾るために 日本でプレイしていたのは覚えています。 それよりぼくは、日本人たちがヨーロッパの、 特にイタリアのサッカーに魅せられていたことに 心を奪われました。 ぼくが東京でプレイしたあの2試合でも、 観客たちはACミランのほうを対戦相手より 賞賛しつづけていました」 ──2002年のW杯の時には、日本のサッカーは成熟し ヨーロッパや南米のサッカーに近付く準備が 整っていたように思えましたが、 2006年のW杯では少し当てがはずれた気がします。 なにか特別な原因があると思いますか? 「日本のサッカーは進歩していますが、 少々素朴で、お人好しかも知れません。 2002年の対トルコ戦では、 コーナーキックの小さなミスが原因で、 敗退という大きな代償を払う事になったと 記憶してます。 それから4年後のドイツでも、 欠点というよりは単純さで敗退したと思います。 オーストラリア戦ではもっと色々なことが 出来たのではないでしょうか」 ──ドナドーニさんは、 どれくらい日本のサッカーについて知ってますか? 「数カ月前にJ1の試合をいくつか見ました。 何チームかはヨーロッパ風のプレイをしていますね。 まだブラジルの影響のほうが強いですけど。 鹿島アントラーズ、ガンバ大阪、 横浜Fマリノスのプレイを見ましたが、 良く組織されていて プレイも以前より良くなっている。 日本のサッカーは明らかに成長を続けています」 ──選手たちは? 「今回のW杯では、 ディフェンスの宮本恒靖が良いレベルで 好感がもてました。 中田英寿と中村俊輔は、 すでにイタリアでプレイを見ていましたが、 W杯でも興味深い仕事を見せてくれましたね」 ![]() ──中田はイタリアでは 過小評価されていたのではないですか? 結果としてはローマで主役級のプレイをして、 カンピオナートに1回優勝していますが。 「中田は良い選手でしたが、 もっと偉大なチャンピオンになれたはずです。 彼は身体も技術も知性も、全てに恵まれていました。 でも彼がサッカーに捧げたのは 人生の40%くらいだったのではないかと、 ぼくは思います。 残りの60%は、広告や宣伝やテレビ、 インターネットその他に宛てていたように見えました。 彼はサッカー選手というよりは、 ひとつの企業体だったのかも知れません。 もし中田がサッカーのことだけを考えていたら、 世界最強選手のひとりになっていたでしょう。 でも自身の40%しかサッカーに捧げなかったら、 その実現は難しいです。 本当に勿体なかったと思います。 彼自身にとっても、日本にとっても、 偉大なチャンピオンを生む大きなチャンスを 逃してしまったかなと思って‥‥」 こう言い終わると、 ドナドーニは微笑みながらぼくを見て、 こう付け足しました。 「日本のサッカーファンたちに、 よろしくお伝えください、お願いですよ。 将来彼らのために仕事をすることも あるかも知れません」 はい、彼の「お願い」を 読者のみなさんにお伝えします。 ロベルト・ドナドーニから日本のみなさんへ、 これからもどうぞよろしく!!
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2006-10-03-TUE
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