ほぼ日 |
今日はよろしくお願いします。
展覧会を見て、まず僕らが一番驚いたのが、
円山応挙がこんな丸い人だったってことを
全然知らなくて! |
江里口 |
そうですね(笑)。
お弟子さんの山跡鶴嶺
(やまあと・かくれい)が描いた。
『円山応挙像』をごらんになったんですね。 |
『円山応挙像』(部分)山跡鶴嶺 個人蔵
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ほぼ日 |
応挙っていうと「幽霊」っていうふうに、
不勉強な僕らは思ってて、
幽霊を描くくらいの人だから、
きっと病的に細面ではないかと
思っていたんです(笑)。
怖くて、死にそうなおじいさんとか、
鬼気迫る人を想像してたら、
「かわいい」と言ってもいいくらいの
人ですよね。 |
江里口 |
優しいおじさんって感じですよね。
私も実は応挙寺、つまり香住町の大乗寺へ
初めて行った時に知ったんです。 |
ほぼ日 |
大乗寺は、兵庫県の
日本海側のところですよね。
応挙寺とも呼ばれているんですね。 |
江里口 |
はい。カニで有名なところです。
今だと松葉ガニがおいしいんじゃないかしら。
城崎温泉に近くて。
応挙と応挙のお弟子さんたちが、
そのお寺の13あるお部屋のうちの襖、
合わせて165面の襖絵を描いているんです。 |
ほぼ日 |
すごいなあ。それ、今回
そのいくつかが見れるんですよね。 |
江里口 |
そのうちの3部屋分。
特に応挙が描いた3部屋を。 |
ほぼ日 |
丸ごと持ってきちゃったんですよね。 |
江里口 |
ええ、そうなんです。
そのお寺の入り口に応挙の像が
でんと鎮座ましまして、
まず迎えてくれるんですよ。
応挙さんが座って、
いらっしゃいって感じでね。
その像を見るまで、私も
もっと繊細な、いかにも画家という
イメージを持っていたんです。
こういう丸顔のおじさんが
「いらっしゃい」ってので、
びっくりしましたねえ。 |
ほぼ日 |
あの顔を見ると、応挙っていうのは
どういう人なんだろう、
どこからどういうふうに
出てきた人なんだろうと
すごく興味が出てきます。 |
江里口 |
京都の、いまの亀岡市っていうところの
農家の出身でした。
次男坊っていうことだったらしいです。
お母さんは元々は武士の出です。
とにかく真面目な性格だったらしくて、
小さい時はやはり昔のことですので
奉公に出されます。
今回展示もしてますけども、
金剛寺っていうお寺が近所にあって、
まだ小さいときに奉公に出されました。 |
ほぼ日 |
当時はそういうことが農家の次男坊には
当たり前のことだったんですね。 |
江里口 |
そうですね。ええ。
まあ一種の口減らしみたいなのも
あったんでしょうけれどね。
そのあと、13〜14歳くらいで京都に出て、
初めは呉服屋さんに奉公に出たって
言われてます。
そのあとはおもちゃ屋さん。 |
ほぼ日 |
おもちゃ屋さん? |
江里口 |
ええ、おもちゃ屋さん。玩具商店の
尾張屋中島勘兵衛の世話になりました。
おもちゃ屋さんっていっても
ガラスを使った道具、
たとえばレンズや望遠鏡も扱った、
幅広いお店だったんですね。 |
ほぼ日 |
今でいうとどんな感じなんだろう‥‥。
原宿のキディランドとか、
そういうところの店員さん、
ていう感じかなあ??
デパートかなあ?? |
江里口 |
お人形さんも扱ってるし。 |
ほぼ日 |
じゃあ、銀座のソニープラザとか
博品館とか! |
江里口 |
あ、そういうところかもしれないです。
応挙は、初めはそこで
人形に絵具を塗ったりする
仕事をしてたらしいんですよ。 |
ほぼ日 |
ってことは、別に彼に絵の才能があるって
誰かが見出してから
そこに行ったんじゃなくて、
たまたま奉公に縁あって行った先が
おもちゃ屋さんで、
人形に絵具を塗る仕事に就いた。 |
江里口 |
ええ。ただやはり
才能があったっていうことで、
ご主人が今度は「眼鏡絵」を
彼に描かせるんです。 |
ほぼ日 |
あ、展示がありましたね。 |
『のぞき眼鏡』初期 兵庫・神戸市立博物館蔵
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江里口 |
眼鏡絵っていうのは、
箱の中に、遠近法を使った絵が入っていて、
それをレンズを通して覗くともっと拡大して
立体感がリアルに感じられるっていうので
評判になった、からくり絵なんです。
最初は、中国的な絵でした。
それは中国の物が輸入されていたから
なんですけども、あまりに人気が高くて
品薄になったので、
日本製のものが必要になった。
「じゃあ日本製のものを作ろう」ってことで、
才能があった応挙に描かせたらしいんですよ。 |
ほぼ日 |
「うまいなあ、描いたらどうや」
って感じですよね。
それがこの辺りの三十三間堂とかの、
いかにも遠近法みたいな絵ですね。
手前から奥に一点透視図ですね。 |
江里口 |
そうですよね。
オーバーですよね、すごく。 |
『眼鏡絵(日本名所)三十三間堂通し矢図』円山応挙 個人蔵
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ほぼ日 |
すごいオーバーですね(笑)。
彼はこれを見様見真似で
描いたっていうことですか? |
江里口 |
だと思いますね。
中国のものを参考にして。 |
ほぼ日 |
こういうものを日本版で作れってだけ
言われたんですよね、きっとね。 |
江里口 |
言われたんでしょうね。
だから尾張屋さんのご主人が、
この子は才能がありそうだっていうんで、
応挙が17歳くらいのときに、
当時の狩野派の先生、
石田幽汀(いしだ・ゆうてい)に
絵を習わせてくれたんですよ。
少し勉強しなさいって。
尾張屋のご主人のおかげで
狩野派の技術の筆遣いっていうのを
勉強したらしいんですね。 |
ほぼ日 |
そういう例って他にあるんですか?
当時の画家になる道筋として、
農家出身の子が商売屋の大店の
ご主人に見出されて、
才能を開花してっていう例は。 |
江里口 |
あまりないんじゃないかな。 |
ほぼ日 |
ないですよねえ。
じゃあ、応挙は、本当に才能があったことと
運がよかったことで、そうなったんだ。
応挙を狩野派につけるというのは、
尾張屋のご主人にとっては、
もっといい眼鏡絵を描かせようという
商売のためだったのかもしれないけど、
その前に人柄もよかったんだと
思えるお話ですね。ご主人も応挙も。
いろんなことが重なって、
彼にチャンスが来たんですね。 |
江里口 |
そうですね。応挙が人形の顔を
描いていたという経験も、
その絵付けをすることによって、
立体感の把握っていうのができた要因だって
言われてますし、眼鏡絵にしても
それを描くことで遠近法っていうことを
身に付けたと聞いてます。 |
ほぼ日 |
別にお勉強じゃなしに、
こういうものがある、これはなんだろう、
これはどういうことなんだろうって
それをもう一回やろうとしたら
自然に身に付いちゃったってことですよね、
平面で奥行きを表現するみたいなことが。 |
江里口 |
ええ。
それでとにかく尾張屋のご主人が
習わせてくれたりっていうこともあったので、
やっぱり応挙は恩に感じてたらしく、
尾張屋さんのご主人が亡くなった時に、
お葬式の一切の取り仕切りをしたのは
応挙だったといいます。 |
ほぼ日 |
え! まるで嫡男扱いですね。 |
江里口 |
そうですね。あと、もう一人
池大雅っていう文人画家がいますよね。
その人と二人でお葬式を仕切ったと。
たぶん池大雅も尾張屋のご主人に
よっぽど世話になったんだと思います。 |
ほぼ日 |
よっぽど人望のある
ご主人だったんでしょうね。 |
江里口 |
そうですね。応挙は本当に
いい奉公先に恵まれたってことですね。 |
ほぼ日 |
運がある人ですね。 |
江里口 |
それプラス自分の実力と努力とか人柄とか、
そういうのがちょうどいい具合に
ミックスして開花して、
円山応挙という画家の基礎になっていくんです。
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