江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

ほぼにちわ!
今回から、現在江戸東京博物館で開催中の
「特別展 円山応挙」について
特集をしていきますよ〜!

正直に申しあげますと、ほぼ日乗組員、
円山応挙をあなどっておりました!
「幽霊画」の印象ばかりが、あったんです。
こんなに「アバンギャルド・かつ・明るい」ひとだとは
思いもよらなかった!
いったい応挙ってどんな人だったの?
どんな人生だったの?
なぜ幽霊を描いたの?
などなど、いろいろな質問に答えてくださるのは
江戸東京博物館の担当学芸員である
江里口友子(えりぐち・ゆうこ)さん。
例によって、かなり間抜けかもしれない質問にも
明解に答えてくださいました。



まずは4回にわけて、
駆け足で応挙という人の画家人生を追います。
それから、彼が描こうとしたものとは
いったいなんだったんだろうかという
お話へとすすんでいきます。
この展覧会、たいへんな好評で、
とても混雑しているということなんですけれど、
ぜひ行ってみてください。
この特集を読んでから行くと、
「そうか! なるほど〜!」と
思っていただけるはずですよ!



駆け足で応挙の画家人生を。その1
縁に恵まれた天才少年。

ほぼ日 今日はよろしくお願いします。
展覧会を見て、まず僕らが一番驚いたのが、
円山応挙がこんな丸い人だったってことを
全然知らなくて!
江里口 そうですね(笑)。
お弟子さんの山跡鶴嶺
(やまあと・かくれい)が描いた。
『円山応挙像』をごらんになったんですね。

『円山応挙像』(部分)山跡鶴嶺 個人蔵

ほぼ日 応挙っていうと「幽霊」っていうふうに、
不勉強な僕らは思ってて、
幽霊を描くくらいの人だから、
きっと病的に細面ではないかと
思っていたんです(笑)。
怖くて、死にそうなおじいさんとか、
鬼気迫る人を想像してたら、
「かわいい」と言ってもいいくらいの
人ですよね。
江里口 優しいおじさんって感じですよね。
私も実は応挙寺、つまり香住町の大乗寺へ
初めて行った時に知ったんです。
ほぼ日 大乗寺は、兵庫県の
日本海側のところですよね。
応挙寺とも呼ばれているんですね。
江里口 はい。カニで有名なところです。
今だと松葉ガニがおいしいんじゃないかしら。
城崎温泉に近くて。
応挙と応挙のお弟子さんたちが、
そのお寺の13あるお部屋のうちの襖、
合わせて165面の襖絵を描いているんです。
ほぼ日 すごいなあ。それ、今回
そのいくつかが見れるんですよね。
江里口 そのうちの3部屋分。
特に応挙が描いた3部屋を。
ほぼ日 丸ごと持ってきちゃったんですよね。
江里口 ええ、そうなんです。
そのお寺の入り口に応挙の像が
でんと鎮座ましまして、
まず迎えてくれるんですよ。
応挙さんが座って、
いらっしゃいって感じでね。
その像を見るまで、私も
もっと繊細な、いかにも画家という
イメージを持っていたんです。
こういう丸顔のおじさんが
「いらっしゃい」ってので、
びっくりしましたねえ。
ほぼ日 あの顔を見ると、応挙っていうのは
どういう人なんだろう、
どこからどういうふうに
出てきた人なんだろうと
すごく興味が出てきます。
江里口 京都の、いまの亀岡市っていうところの
農家の出身でした。
次男坊っていうことだったらしいです。
お母さんは元々は武士の出です。
とにかく真面目な性格だったらしくて、
小さい時はやはり昔のことですので
奉公に出されます。
今回展示もしてますけども、
金剛寺っていうお寺が近所にあって、
まだ小さいときに奉公に出されました。
ほぼ日 当時はそういうことが農家の次男坊には
当たり前のことだったんですね。
江里口 そうですね。ええ。
まあ一種の口減らしみたいなのも
あったんでしょうけれどね。
そのあと、13〜14歳くらいで京都に出て、
初めは呉服屋さんに奉公に出たって
言われてます。
そのあとはおもちゃ屋さん。
ほぼ日 おもちゃ屋さん?
江里口 ええ、おもちゃ屋さん。玩具商店の
尾張屋中島勘兵衛の世話になりました。
おもちゃ屋さんっていっても
ガラスを使った道具、
たとえばレンズや望遠鏡も扱った、
幅広いお店だったんですね。
ほぼ日 今でいうとどんな感じなんだろう‥‥。
原宿のキディランドとか、
そういうところの店員さん、
ていう感じかなあ??
デパートかなあ??
江里口 お人形さんも扱ってるし。
ほぼ日 じゃあ、銀座のソニープラザとか
博品館とか!
江里口 あ、そういうところかもしれないです。
応挙は、初めはそこで
人形に絵具を塗ったりする
仕事をしてたらしいんですよ。
ほぼ日 ってことは、別に彼に絵の才能があるって
誰かが見出してから
そこに行ったんじゃなくて、
たまたま奉公に縁あって行った先が
おもちゃ屋さんで、
人形に絵具を塗る仕事に就いた。
江里口 ええ。ただやはり
才能があったっていうことで、
ご主人が今度は「眼鏡絵」を
彼に描かせるんです。
ほぼ日 あ、展示がありましたね。

『のぞき眼鏡』初期 兵庫・神戸市立博物館蔵

江里口 眼鏡絵っていうのは、
箱の中に、遠近法を使った絵が入っていて、
それをレンズを通して覗くともっと拡大して
立体感がリアルに感じられるっていうので
評判になった、からくり絵なんです。
最初は、中国的な絵でした。
それは中国の物が輸入されていたから
なんですけども、あまりに人気が高くて
品薄になったので、
日本製のものが必要になった。
「じゃあ日本製のものを作ろう」ってことで、
才能があった応挙に描かせたらしいんですよ。
ほぼ日 「うまいなあ、描いたらどうや」
って感じですよね。
それがこの辺りの三十三間堂とかの、
いかにも遠近法みたいな絵ですね。
手前から奥に一点透視図ですね。
江里口 そうですよね。
オーバーですよね、すごく。

『眼鏡絵(日本名所)三十三間堂通し矢図』円山応挙 個人蔵
ほぼ日 すごいオーバーですね(笑)。
彼はこれを見様見真似で
描いたっていうことですか?
江里口 だと思いますね。
中国のものを参考にして。
ほぼ日 こういうものを日本版で作れってだけ
言われたんですよね、きっとね。
江里口 言われたんでしょうね。
だから尾張屋さんのご主人が、
この子は才能がありそうだっていうんで、
応挙が17歳くらいのときに、
当時の狩野派の先生、
石田幽汀(いしだ・ゆうてい)に
絵を習わせてくれたんですよ。
少し勉強しなさいって。
尾張屋のご主人のおかげで
狩野派の技術の筆遣いっていうのを
勉強したらしいんですね。
ほぼ日 そういう例って他にあるんですか?
当時の画家になる道筋として、
農家出身の子が商売屋の大店の
ご主人に見出されて、
才能を開花してっていう例は。
江里口 あまりないんじゃないかな。
ほぼ日 ないですよねえ。
じゃあ、応挙は、本当に才能があったことと
運がよかったことで、そうなったんだ。
応挙を狩野派につけるというのは、
尾張屋のご主人にとっては、
もっといい眼鏡絵を描かせようという
商売のためだったのかもしれないけど、
その前に人柄もよかったんだと
思えるお話ですね。ご主人も応挙も。
いろんなことが重なって、
彼にチャンスが来たんですね。
江里口 そうですね。応挙が人形の顔を
描いていたという経験も、
その絵付けをすることによって、
立体感の把握っていうのができた要因だって
言われてますし、眼鏡絵にしても
それを描くことで遠近法っていうことを
身に付けたと聞いてます。
ほぼ日 別にお勉強じゃなしに、
こういうものがある、これはなんだろう、
これはどういうことなんだろうって
それをもう一回やろうとしたら
自然に身に付いちゃったってことですよね、
平面で奥行きを表現するみたいなことが。
江里口 ええ。
それでとにかく尾張屋のご主人が
習わせてくれたりっていうこともあったので、
やっぱり応挙は恩に感じてたらしく、
尾張屋さんのご主人が亡くなった時に、
お葬式の一切の取り仕切りをしたのは
応挙だったといいます。
ほぼ日 え! まるで嫡男扱いですね。
江里口 そうですね。あと、もう一人
池大雅っていう文人画家がいますよね。
その人と二人でお葬式を仕切ったと。
たぶん池大雅も尾張屋のご主人に
よっぽど世話になったんだと思います。
ほぼ日 よっぽど人望のある
ご主人だったんでしょうね。
江里口 そうですね。応挙は本当に
いい奉公先に恵まれたってことですね。
ほぼ日 運がある人ですね。
江里口 それプラス自分の実力と努力とか人柄とか、
そういうのがちょうどいい具合に
ミックスして開花して、
円山応挙という画家の基礎になっていくんです。

今回は、ここまでです。
次回は彼が尾張屋を出て、フリーランスになってからの
経緯を、お聞きします。おたのしみに!

2004-02-26-THU
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