糸井 |
こんにちは、今日はよろしくお願いします。
芳賀先生がいらっしゃると、
僕は、とてもラクなんです。
何を訊いても答えて下さるから。
昔、先生にお訊きしたことがあるのは、
与謝蕪村でした。 |
芳賀 |
蕪村、わたくし大好きです。
ちょうど同じ時代ですよ、源内と。
源内は1728年生まれ、
蕪村は1716年ですから、
蕪村のほうがちょっと上ですけれど
蕪村が亡くなるのが1783年で、
源内は、1780年に亡くなりますから、
ほんとに重なるんですね。 |
糸井 |
源内はのちに江戸に暮らしますが、
生まれたところはどこですか? |
芳賀 |
讃岐の志度です。
讃岐は、ちょうど源内のころ、
松平頼恭という殿様が藩主で。
彼は讃岐藩の中興の祖と言われ、
たいへんな賢君でした。
殖産興業をひじょうに進めた人です。
讃岐の三白というのは、
塩と砂糖と米ですね。 |
糸井 |
白い砂糖、白い塩、白い米。 |
芳賀 |
それを讃岐の名物にする
きっかけをつくったのがこの殿様です。
で、その殿様に直接に仕えていたのが
平賀源内なんですね。 |
糸井 |
ということは、源内は、
その殿様の影響を、実は受けてますね。
源内がどれくらい、素晴らしい人間で、
そのお殿様がどれだけ
源内をかわいがって役に立てたかって
いうことについては、
いっぱい書籍に書いてあるんですけど、
「そんな殿様がいたからこその源内」
っていうのは‥‥。 |
芳賀 |
あ! ひじょうにあると思いますね。
頭からいいことを言いますね。
糸井重里さん。 |
糸井 |
何をおっしゃる(笑)。 |
芳賀 |
確かにそうです。
源内は少年の頃から、
いろんなことを調べるのが好きでした。
特に薬草を調べるのが好きで。
まだ少年の頃から、
あの男の子は良くできるというので、
松平の殿様が、特別に召し出して、
今もあります高松の有名な栗林公園
(りつりんこうえん)。
隅っこに薬草園があって、
そこに取り立てたんですね。 |
糸井 |
ええ。 |
芳賀 |
ほんとは源内はそんな家柄じゃなかったんです。
高松から電車で30分ぐらい行ったところの
志度という町の、ほんっとの下っ端の、
足軽の息子でした。
お寺番をしてたそうですね。
この殿様は、そういう家の子を
見立てたわけですね。 |
糸井 |
人が何を喜ぶかっていう価値観の源を、
その殿様がつくったとも言えますね。 |
芳賀 |
うん、ほんとにそうかもしれませんね。
源内を見込んで、これは良くできる少年だと。
どうも薬草のことが好きだし、
ずいぶん若いのに詳しい。
じゃあ、栗林公園の薬草園に、
薬草係として取り立てようというので、
志度から呼び寄せて、
高松本藩の薬草園の殿様直々の役職に
つかせたわけなんです。
小坊主っていうんでもないでしょうけど。 |
糸井 |
「いてもいいよ」っていうやつですね。
書生みたいなものですね。
そこに源内は長く? |
芳賀 |
源内が20歳近くなったころに、
再度、殿様の見立てがあるんです。
あいつはやっぱり良くできる、面白い。
よく勉強をするヤツだ。
あれをちょっと援助して、
長崎に留学させよう。 |
糸井 |
のちに源内は江戸に住みますが、
長崎に行ってからの江戸なんですね。 |
芳賀 |
そうですね。宝暦2年、1752年に、
源内が初めて、その殿様と、
地元のちょっとお金のあるパトロンの支援で、
長崎に留学して。
だいたい1年あまりいたようです。 |
糸井 |
はぁ、はぁ、はぁ。 |
【日本山海潮陸図:石川流宣】(部分/文字は編集部で加工)
|
芳賀 |
だからやっぱり殿様の引き立てが
ひじょうに効いておりました。
やっぱり殿様はそれだけの眼力があり、
若者の才能を見込んで、それを取り立てる、
そういう才覚があった人なんですね。 |
糸井 |
そうですね。 |
芳賀 |
それは今でも大事ですよね。
若い人の中にいい才能を見つけて、
それを取り立ててやるっていうのはね。 |
糸井 |
プロデューサーですよね。 |
芳賀 |
うん、プロデューサー。
上に立つべき者のやるべきことですね。
自分は何もしないでいいから、
優秀な者を見つけて、それにいい仕事をさせる。
大事なことです。
あの頃の殿様っていうのは、
なかなか偉い人が多いんですよ。 |
糸井 |
源内ぐらいの時代になると、
武術だとか力技の部分が役に立つことが
少なくなってる時代ですよね。 |
芳賀 |
まさにそうですね。
確かにもう徳川の平和が確立されていました。 |
糸井 |
そうなると、学問。 |
芳賀 |
代わりに学問。儒学をやるか、
本草学のような、今でいえば博物学、
自然学をやらせるか。
あるいは地理をやったり蘭学になってきますね。
1603年に、江戸幕府が開府されて、
大阪冬の陣・夏の陣があってから
源内の時代までに100年以上経っているわけです。 |
糸井 |
そうですよね。うーん。 |
芳賀 |
もう、今、我々には
第二次世界大戦の記憶も‥‥
糸井さんは憶えてるかな?
あなたは戦後でしょ? |
糸井 |
ええ、実は。 |
芳賀 |
あ〜、かわいそうに。
わたくしは戦前生まれですから、
よく憶えておりますが、
その記憶さえもなくなってきているわけですね。
源内の頃は、戦争はもうほんっとに、
英雄談に過ぎなかったような時代に
なっていたんですよ。 |
糸井 |
もう、刀も細身になっちゃってる時代ですよね。 |
芳賀 |
だから、肖像画の源内も、
丁髷は細い本多髷というような、
格好だけつけてる侍でした。
源内はほんとに刀振るったら
人切れたかなぁ? |
【平賀源内肖像:木村黙老著『戯作者考補遺』】
|
糸井 |
弱いんでしょうね、やっぱり。 |
芳賀 |
あんまり強くないですね、あれはね。 |
糸井 |
そういう記録はないんでしょうか。 |
芳賀 |
ありません。人を殺したとか
殺されかかったとか、そういう記録は。
あ、最後に人を殺しましたね。 |
糸井 |
あ、最後に。 |
芳賀 |
そのときだけですね、刀を振るったのはね。 |
糸井 |
つまり、使い慣れないから
殺しちゃったかもしれない。 |
芳賀 |
あー! なるほど。面白いこと言いますね。
そういう説は今までなかった。 |
糸井 |
そうですか?
なんか、褒められて嬉しい(笑)。 |
芳賀 |
人を殺した理由について、
源内は、自分がせっかく考えていた、
ある家の設計図を、
自分の家に出入りしていたどっかの小僧さんが
盗み見したというので、それに腹を立てて、
盗まれたと思って傷つけたということに
なってますが。でも、殺すなんて、
そのつもりはなかったかもしれない。 |
糸井 |
脅かすだけのつもりだったかもしれませんね。 |
芳賀 |
はい、下手で、ほんっとに刀振っちゃって、
刀重たくて、で、相手は死んじゃった。
あるいはそうかもしれませんね。
これが源内殺人事件の糸井説。 |
会場 |
(笑)
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