ITOI
ダーリンコラム

<あなたの燃える手でわたしを抱きしめて>

中年の女性っていうかさ、
おばさんたちの間で、シャンソンが流行ってるって。
おばさまって言い換えたほうがいいなら、そうするけどさ。
ま、おなじことだよ。
習ったりしてるらしいよ、シャンソンを歌うのを。

おじさんたちも、
シャンソン歌手の歌う懐メロをよろこんでるらしいから、
つまりは、おばさんとおじさんに、
シャンソンが流行りだしてるってことだよな。

わかるよ、それ。
シャンソンって、濃いもん。
恋と濃いのシャレじゃないけどさ。
たぶん、クールってところから、いちばん遠いんじゃない?
おれは、そんなに詳しいわけじゃないけどさ。
シャンソンには、やっぱりさ、魔があるよ。
魔ってのは、「魔が差す」っていうときの魔だよ。
悪魔の魔だと思ってくれてもいいや。
魔でわかんなきゃ、狂があるって言ってもいいかな。

身も世もあらぬってくらいに、
思い入れたっぷりに歌うだろ。
いまの若い人が見たら、
ふざけてるんじゃないかと思うよね。

いまじゃ、日本の演歌とかだって、
さらっとさ、感情を抑制しながら歌うもんなぁ。

ところがシャンソン歌手は、
顔をしかめて拳を握りしめてさ、
急に笑いだしたりしたりもするもんなぁ。
音程だって、わざと外したりしてるだろう?
狂ってるというわけだよね。
おかしくなっちゃってるんだ、歌いながら。
そういう表現をしているんだよな。
クールな人たちからは、
「きもちわるい」とか言われちゃうかもしれないよ。

シャンソンのなかには、
政治犯の歌やらもあるようだけれど、
基本的には、恋愛の歌だよね。
恋愛の歌でも、
優しく深く歌えばいいのにって思うかもしれないけど、
そうはいかないってとこがあるんだよ。

たぶん、おばさんもおじさんも、
うすうす知ってるんだよ、そっちのさ、
魔やら狂やらを含んだものこそが
恋愛だってことをさ。

シャンソンで歌われている恋愛ってのはさ、
人生を破壊するほどの力として描かれてるんだ。
むろん、それに見合うほどの歓びもあたえるとも歌う。
「すべてを奪い去るけれど、それでもいいか?」
という問いかけを秘めているものなんだよな。

そういう恐ろしさを、おばさんやおじさんの、
誰もが味わったはずはないさ。
むしろ、味わうことがなかったからこそ、
「ああ、あの恐ろしい崖の下を見てごらん」
とばかりに、シャンソンに向かうのかもしれない。
あるいはさ、ひょっとしたら、
「わたしもあの崖の下で眠っていたのかも‥‥」と、
残念ながらにほっとするために、
「あなたの燃える手でわたしを抱きしめて」なんて、
歌うのかもしれないね。

どっちにしても、恋愛は、
講釈こそぬかさないけれど、
猿だって犬だって馬だって牛だって、
爬虫類だってやっていることだよ。
魅かれ合ったり惹き合ったりするのは、
考えぬいて計画して社会生活をやっていくこととは、
かなり矛盾することだからね。
シャンソンで歌われてる世界みたいなところを、
突っ走っちゃったら、そりゃぁ崖から落ちるってものさ。

そういう濃い恋愛の歌は、流行んないからね、いまは。
暑苦しいしさ、大げさだしね。
「クルマのなかでチューしたんだけど、ともだちよ~」
みたいな、そんな歌ないけどさ、
そんなくらいの軽さの恋愛が、
人生を壊さなくてちょうどいいんだよな。
歌も、べとべとしたり、ねっとりしてたら、
商品として流通しにくいってとこがあるもの。

でも、おばさんも、おじさんも、
原始的な恋愛の濃さが、忘れられないんだ。
そっちのほうが、魔やら狂がある分だけ、
心を揺さぶるという気がするんだよな。
そんな気分を、オーバーな表現で満たしてくれるのが、
そうだよ、シャンソンだよ、というわけだ。

前にも、ここで言ったっけなぁ?
『北の国から』という、一見牧歌的なドラマは、
北海道の広々とした景色を見せる映画じゃないぜ。
ありゃぁ、恋愛という暴風が、
あちこちの舞台に荒れ狂った物語なんだよ。

だいたい、第1回の、
田中邦衛と二人のこどもが富良野に行くきっかけは、
妻であるいしだあゆみと、伊丹十三の情事を、
夫と娘の蛍が目撃してしまったことなんだぜ。
それが、彼らが北へ行く理由だったんだよ。
その後も、ずっとそうだよ。
さまざまな登場人物たちの、それぞれに純な恋愛が、
村の安定やら、家族の絆やらをずたずたに切り裂いて行く。
そういう恐ろしい魔と狂のお話なんだよ。
だから、大滝秀治とか、恋愛については
相当に厳しい反対の立場をとるんだよ。
せっかく、かつかつで安定している生活を、
恋愛一発で、ぶっ壊しちゃうからね。

いいの悪いのじゃなく、恋愛そのものが、
魔だったり狂だったりするという怖さが、
『北の国から』の、濃さだったんだよなぁ。

いまは、そういうふうな、
何の罪もないはずの恋愛の暴威を描く
なんて難しいことがやれないから、
難病だとかね、事故という偶然だとかを敵にまわして、
主人公たちが「愛」を武器に闘うんだよね。
恋愛は、健全で健康な社会の側のシンボルなんだ。
魔でも狂でもなく、あたたかい涙みたいなものさ。
そりゃぁ、もの足りないはずだよ、
おばさんやらおじさんやらにはね。

だから、古い机の引き出しの奥から、
昔の日記帳をひっぱり出すように、
シャンソンの濃縮果汁還元みたいな恋愛を、
味わうようになってるんだと思うんだよね。

石川直樹は、北極でシロクマに遭遇したときのことを、
『いま生きているという冒険』のなかで、
こんなふうに語っている。
<ぼくはシロクマと向かい合った瞬間の
 びりびりするような緊張感が忘れられません。>
このシロクマこそが、恋愛と同じものだと思うんだよ。

まだまだ、おばさんやおじさんにだけでなく、
シャンソンが持っているような、
恋愛という悪役を讃えるような世界は、
流行っていくと思うよ。
いや、流行っていくというよりも、
戻っていくというほうがいいかもしれない。
だって、薄くなりすぎているもの、世界が。

シャンソンというかたちじゃないけれど、
しかし日本には、中島みゆきという人がいるからなぁ。
あの歌い手が叫んでいるかぎり、
日本の歌における魔と狂の絶滅はないね。

そういえば、
『エディット・ピアフ~愛の讃歌』って映画、
やっているんだね。
いよいよ、そっちの風が吹いてきてるのかなぁ。

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2007-10-08-MON
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