TV
テレビという神の老後。
電波少年T部長と青臭く話した。

第2回 テレビという3文字のジレンマ


糸井 フィクションとノンフィクションのはざまを
土屋さんがじっと見ているところに、
「制作者じゃなくて、実は研究者だ」
という事実が出ちゃってるんじゃないでしょうか。
そこを「研究課題」として見ているんでしょうね。
土屋 そうかもしれない。
糸井 スタッフが育っているから、
「でも、番組ですよ」
というところは彼らがおさえてくれる。
企業としては、お金を稼がないと
仕事をしている意味がないし、メシが食えない。

「メシが食えない」という言葉を
簡単に使うのはいやなんだけども、現実として、
ビジネスは稼がないとまわっていかない。

稼ぐところが、クルマの動力輪、
「うしろのタイヤ」だとしますよね?
そっちは、あまりいろんなことを
考えないで、バーッとふかせればいい。
「前のタイヤ」は、遊んでいるんですよ。
うしろが動いているので、
同じ速度でまわっている。
ハンドルを切る人がいないとクルマじゃない。
そんなシステムが、いろいろなところに
存在しているわけじゃないですか。

土屋さんというのは、そんな中では、
動力の伝わりかたと自動車の構造について
考えている人なんじゃないかと思うんです。
眠っていてもクルマが走るというところも
よく知っているし。
運転手ではなくて、研究者に近いような。

「あのイナカ道は、このクルマでは無理です」
と言われたとしても、
「いいからやれよ!まわしてみろよ!
 そうしないと、あの道をクルマが走る様子を
 オレが研究できない
じゃねえか!」
たとえると、土屋さんは、
いつもそんなことを言っているような。
土屋 (笑)
「テレビって何か?と考える役だなぁ」
と気づいた時に、ものすごく
フィットしたように思えたっていうのは、
研究者に近いのかもしれませんね。
ただ、それが必要なのかどうか、
難しいなぁということもありますよね。
糸井 趣味でしょうね、大きく言えば。
土屋 まぁ、大きく言えばそうでしょうね。
糸井 ぼく、今は農業に
ものすごく興味があるんですけど、
農業っていう言葉を使いつづけて、
ぼくが感じている新しさを伝えるというのは、
けっこう実は苦労するんです。
「農業はおもしろい」って言うと、作務衣を着て、
フォークソングを歌う人に見られるんですよ。
「とうとうイトイさんも、そっち行ったか」って。
土屋 そう見られるでしょうね。
糸井 でも、ぼくが今おもしろがっている農業っていうのは、
そういう範囲のことじゃないんですよ。
なかなか伝えにくいんだけど、
ちょっと釣りなんかに近いおもしろさなんです。
「何をどこでどうしたらどうなるか」
ということこそが農業であり、
感受性と実行力と体力と、ぜんぶを使って
挑戦してゆくソフト産業なんです。

ソフト産業なんだけど
手もよごれるというのがおもしろいところで。

昨日、お百姓さんに話を伺った時に、
山芋のビニールハウスを見せてもらったんです。
いつごろにどのぐらいの芋ができるかを
見せてもらったあとに、
「タネの芋って、どのぐらいなんですか?」
って聞いたら、人さし指ぐらいの長さの
ちっちゃいものだったんですよ。

それを植えて下に下に行こうとするものを
下にいかせないようにプラスチックを敷く。
行こうとするのに行けないから、山芋が頑張る。
そのところにどんどん養分がたまっていく。
そんな話もおもしろいんですけど、
タネ芋について、
「もとはそんなに、ちっちゃいんだ?」
って聞いたら、
「……だから百姓はボロ儲けなんだよ」
って言ったんですよ。かっこよかったぁ。
土屋 かっこいいっすね。
言わば自然のチカラを利用して、
かかる費用はプラスチックぐらいで(笑)。
糸井 そうそう。
流通させた時にはじめてボロ儲けになるんで、
すごくいい芋をいっぱい育てるだけでは、
不良在庫として残るんですよね。
ぼくの仕事としては、
「その芋は、うまいんですよ」
ということを伝える役割だと思うんです。
農業でボロ儲けというつながりを見て、
ぼくは、うれしくなっちゃったんですよ。
CD焼いているのと同じソフト産業なんだ、
と思えたからなんです。

そう考えると、農業は、
「食物価値製造業」とも言えるんですよ。
そう見てゆけば、昔からのイメージに
囚われすぎないで済むんじゃないか、と思った。
「価値製造業」という言葉をつけると、
ぜんぶの商売が、最終的には
価値製造に行くんじゃないか
とさえ考えたんです。
旅館の仲居さんは、旅行客を対象にした
サービス価値製造業だ、というように。

その中で、自分は何なのかというと、きっと、
「コミュニケーション価値製造業」だと思うんです。
そして、ちょっと話が回り道になりましたが、
土屋さんは、「テレビコミュニケーション」の
価値製造業に思えるんですよ。
土屋 どうでしょうかね?
糸井 研究室っぽい?
土屋 研究室っぽいですねぇ。
フィットするのは、そっちですね。
昼間は、編成部長をやっているじゃないですか。
今日もこの場所に来る前に、
「この企画、10%行かねぇんじゃねえか?」
とか、そういうことを言ってきているわけで。

そういう時に頭の中に基本としてあるのは、
「10%ということは、最低でも
 600万から800万が必要だ」ということです。
そういうことをやっている反面、
電波少年的放送局のほうでは、
4000人ほどの人たちがいるわけです。
そのバランスのなさがおもしろいんですが、
でも、両者の折りあいは、つかないでしょうね。


この折りあいのつかなさを
ずっと持ち続けると、どこに辿り着けるのかな、
ということにはすごく興味がありますねぇ。
糸井 その興味を、
今おっしゃったかたちのように
整理できたのは、最近ですよね?
土屋 うん。
糸井 ぼくが土屋さんのお話によろこんで乗って、
あの番組をやったことで、
その悩みを製造してさしあげたという
ちょっとした自負があるんです。
土屋 そうですね、ええ。
糸井 土屋さんのこれまでの悩みの深さが
いまひとつ浅かった理由っていうのは、
「ドキュメンタリーの手法を使うと、
 あらゆる人間がタレントになるぞ」
というタレント価値製造がすでにできていて、
それがうまくまわっちゃっていたというところに
あると思うんですね。
土屋 ほんとにそうですね。
糸井 で、誰でもその中に当てはめられると、
土屋さんのお客さんはすごくよろこぶけど、
それじゃあ、イトイのほうがいやだ、
という摩擦の中で今回は話しあったから
生まれた視点も、あると思うんです。
土屋 ええ。

さっきもイトイさんが
言ってくださったのですが、確かに、
「テレビっていう3文字のものの持つ魔力」
って、ありますよね。

ぼくらがふだんから
当たり前のように見ているものの真相は、
そういうものですから。
糸井 うん。雑誌だと、
「タイアップしたいんですけど」
と言って、モノをくれるかどうかの判断基準は、
発行部数だと思うんです。
百万部って言ったら、くれる。
インターネットでもそれは同じですから、
発行部数でクリアできるというところまでは
わかるし、ぼくはそれを追いかけてきたけれど、
ところが、テレビの3文字のほうが、
それより何より大きかった……。
土屋 だから、何というか、
そのいろいろな人たちが
テレビに抱いているイメージって、
嘘なんですよね。
糸井 そう。イメージなんですよ。
土屋 その呪縛って、テレビ創業以来
50年続いているから、めちゃくちゃ
深いものになっているんですよ。
糸井 うん。
「三越で買ったネギ一本」なんですよね?
土屋 しかも、そのネギ、ちょっと枯れてるんです(笑)。
それこそ、BSとかCSに関しても
その呪縛がかかっている。
BSに関して言うならば、地上波までとは
言わないまでも、やはりスポンサーさんは
けっこうなお金を支払ったりするわけです。
そこで、何人の人が見ているかと言ったら、
「いや、それは言っちゃいけないことですから」
と、「そういうことになっている」という……。


そのテレビという3文字の生む
イメージのウソについては、
電波少年的放送局をやる中で、
ぼくらの何人かが気づいたわけですから、
「じゃあ、テレビって、何なんだ?」
というところに、また戻るんです。
糸井 そうだよねぇ。
土屋 ものすごさがウソだとしたら、
「画面からあのくらいのクオリティの
 映像が出てくるというシステム」
みたいなものとしてのテレビって、
いったい何だろう?と。

(つづきます)  

2002-06-11-TUE

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